【試し読み】直木賞作家・荻原浩待望の最新長篇『笑う森』④
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神森で5歳のASD児・真人が行方不明になった。1週間後無事に保護されるが「クマさんが助けてくれた」と語るのみで全容を把握できず、真人の母でシングルマザーの岬はバッシングに晒されている。真人の叔父・冬也の懸命な調査で4人の男女と一緒にいたことは判明するが、空白の時間は完全に埋まらない――。
5月30日に発売された直木賞作家・荻原浩さん2年振りの長篇小説『笑う森』は、罪と後悔の人生を光に変える、希望と号泣の物語です。誰もが抱く拭えない過去を浄化に導く本作の冒頭部分を、5日連続で特別公開いたします。
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車のトランクから台車を出し、後部座席から引っ張り出した「荷物」を載せる。それだけでとんでもなく時間がかかった。なにしろ真夜中だし、荷物は酷く重い。
車はガードレールが途切れた寂しい場所を選んで、道からちょっと木立に入ったところに停めた。通りすぎた案内標識によると、ここはすでに「神森」だった。
街灯はないが、満月のせいか、木のシルエットが見えるぐらいには明るい。それが美那のなけなしの勇気を奮いたたせた。
よし、やるぞ。
台車を押して何歩もいかないうちに、シャベルを忘れたことに気づいた。ああ、いけない。取りに戻る。道を行く車のライトに照らされただけで身が縮んだ。もう少し森の中に停めたほうがよかったか。
数メートルも行かないうちに、ホームセンターで買った折りたたみ式の台車が、森の中へ荷物を運ぶのにはまるで向かないことに美那は気づいた。まして荷物が大人の男となるとなおさらだ。
台車に積んでいるのは、人間だ。
いいえ、ほんの一日前まで人間だったもの。一也の死体だ。
森の地面は岩やら木の根やらどこもかしこもデコボコで、しかも落ち葉だらけだから、まともに進めない。ボコの地面からようやく台車を引き上げたと思ったら、今度は湿った葉っぱに車輪がからめとられる。根っこのデコにひっかかって強引に乗り越えようとすると、布団じゃないものが入った布団袋がずるりと落ちそうになる。
ベビーカーみたく押さないで、引いた方がいいのか。海外旅行の時のキャリーケースの要領で自分が先に立って引っぱってみた。
うん、断然軽い、と思ったら、布団袋が落ちていることに気づかなかっただけだった。ああ、もう。
一也を詰めた布団袋を台車の上に載せ直しているあいだに、また道をヘッドライトが通過していった。思わず首をちぢめる。早く森の奥へ運んで人目につかないところで、こいつを埋めてしまわなければ、人生が詰む。急げ。
よ、い、しょ。
うん、こら、せ。
それ、に、して、も。なんで、こいつ、こん、なに、重いん、だ。ひょろひょろの、痩せっぽちのくせに。
隠していたが、たぶん美那のほうが体重があるはずだ。美那の公称サイズは百六十七センチ、五十六キロだが、ほんとうは六十を超えている。そのぶん体力には自信があった。こんなひょろきちを運ぶなんて楽勝、と思っていた。甘かった。やっぱり勇気を出して解体したほうが良かったか。
荒い息を吐き出すと、夜闇がかすかに白くなった。標高が高いのか、十一月とは思えない寒さだ。ときおり風が薄手のノーカラーコートの裾をはためかせる。それなのに、ひたいには汗がにじんでいる。
木の幹をいくつも縫って進み、ようやく道路からは見えないだろう木立の中へ分け入った。そのかわり木々の梢が頭上の満月も星も消してしまって、周囲は真っ暗闇になった。
森の闇は圧倒的だ。光のない空気には重さがあるに違いない。体が闇に押し潰されてしまいそうだった。美那は背負ってきたリュックを下ろし、懐中電灯を手探りする。
今日の昼、ホームセンターで布団袋とシャベルとこの台車を大型カートに積みこんだ。その時はまだ自首するべきかどうか迷っていた。一睡もしていない頭はパニクったままで、布団袋の柄を花柄にするか水玉のほうがいいかなんてどうでもいいことに迷ったりした。