希望のゆくえ

希望のゆくえ

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 電車を降りると思い出したように額に汗が噴き出した。六月の朝の空気は湿気をたっぷり含んで重い。会社へと急ぎながらスマートフォンを取り出し、電話をかけてきたのが母であることをたしかめた。
「桃を届けてくれるはずだったのよ」
「もしもし」も、「おはよう」も、ましてや「朝早くにごめんなさいね」もなかった。電話に出るなり母は桃の話をはじめた。
 希望のぞむさんと約束したのよ。電話にも出てくれないのよ。おかしいでしょう。母の声が鼓膜こまくを引っき続ける。こめかみがちくちくと痛んだ。昔から勘が良いとは言い難かった、なのに悪い予感だけはこんなふうに時々当たる。
 希望は誠実の弟で、今は市外のマンションでひとり暮らしをしている。桃をもらったから、今晩お母さんのところに持っていくよ、と一昨日おとといの朝に電話をかけてきたのだという。桃は母の好物で、希望は桃に軽いアレルギーがあるから食べられない。
「それなのに来なかったの、おかしいでしょう」
「忘れてただけじゃないの」
 勘弁してくれよ。その言葉はのどの奥に押しこんだ。そんなどうでもいい話を朝からだらだら聞かされても困るのだが。
「だって、希望さんだもの」
 律儀りちぎ几帳面きちょうめん。弟はそういう男で、だから「忘れていた」というのはたしかにすこし不自然な気もした。母は、急な予定が入ったのならば電話のひとつも寄こすだろうし、なによりこちらから何度電話をかけても出ないのはおかしい、なにかあったのに違いない、一昨日、仕事中にとつぜんいなくなって、昨日は会社を無断欠勤したっていうのよと言い募った。
「どうしてわかるの。会社に電話でもかけたの」
「あたりまえでしょう、母親だもの」
 あいつもう二十八歳だよ。思わずそう言ったら、電話の向こうで母が不機嫌そうに押し黙った。
 希望はマンションの管理会社に勤めている。一昨日の日曜日に、とあるマンションを訪れていたという。その日は月に一度のマンション管理組合の理事会の日だった。話し合いを進行させ、議事録をまとめるのが希望の役割だ。
 ところがそのマンションで火災が発生し、消防車がかけつける事態となった。幸いボヤで済み、騒ぎがおさまった頃に理事会がはじまったが、そこに希望の姿はなかった。
 理事会に出席するはずだった住人の女性と一緒に駅に走っていくところを誰かが見たという。女性はボヤ騒ぎをおこした部屋の住人で、同居していた女性の父親は「娘が火をつけた」と主張している。
 会社側も、日曜日からずっと希望と連絡が取れずに困っているらしい。