わたしたちに翼はいらない

わたしたちに翼はいらない

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 結婚していた五年のあいだ、宏明は朱音に一度も給与明細を見せてくれなかった。宏明の給与は「実家の敷地内に住まわせてもらっているから」という理由で、宏明の母に全額渡される決まりになっていた。だから朱音は彼女から毎月、ローンその他を差し引いたわずかな金額を「生活費」として受け取るだけだった。
 結婚してから気づいたことだが、宏明はとても風邪かぜをひきやすかった。年に十回以上風邪をひいていた印象がある。ちょっと水仕事をさせると「身体が冷えた」と鼻をぐずぐず言わせる。大きな病気をした経験はいちどもなく、健康診断の結果に異常はなかった。にもかかわらずしょっちゅう寝込んで、朱音に「きみは頑丈でいいよね」などと言うのだった。
「そういったひとつひとつの些細なこと、それに類似したありとあらゆることがひとつずつ積み重なって、しまいには顔を見るのも嫌になりました。最後のほうにはおかしを食べたあとにそのゴミをテーブルにしばらく放置しておく癖も、歯磨き粉のチューブのふたをきちんとしめないところも、ぜんぶ嫌になりました。他にもたくさんありますけど聞きます?」とでも言えばいいだろうか。たぶん「誰か」は最後まで朱音の話を聞かない。人間がちゃんと聞くのは自分が期待している話だけだから。
 もう「いろいろあったんですよ」でいいのかもしれない。深刻そうに目を伏せてみせたら、きっと勝手に想像してくれる。よし、それでいこう。心が決まったところで、まだ朝食のパンを口にいれたままの鈴音をせかして玄関に向かう。仕事用の黒いパンプスのつま先の革がげて白くなってきちゃったな、と思いながら鈴音が靴を履くのを見守った。
 朝方に雨が降ったらしく、外廊下が湿っている。駐輪場から引っ張り出した自転車のサドルも。自転車をぎ出した時、雨、と鈴音が言う。寝てるあいだに降ってたみたいね、でも今日は晴れるみたいよ、と前を向いたまま答える。前を走っていた学生の自転車が水たまりにつっこみ、派手な飛沫しぶきを上げた。
 保育園に鈴音を送り届けてから、市役所に向かう。この前とは違う、ベテランふうの年配の女性が窓口に立っていた。用紙をもらいに来た時よりもずっとスムーズに、朱音の「緑の紙」は受理され、晴れ晴れとした気分で市役所を出る。
 今日は有休を取っているから、このあとはなにをしてもよかった。ほんとうは、父の通院に付き添うつもりだったのに、父が突然「ひとりで行けるから」と言い出して、予定がぽっかり空いてしまった。
 朱音には母の記憶がない。ごく小さい頃に病死したため、写真でしかその顔を知らない。きょうだいもいない。二十歳の時、バイト先のコンビニから帰宅したら父が台所で胸を押さえ、苦しんでいた。あの時のことを思い出すと、今でも手のひらがすっと冷たくなる。ひとりぼっちになってしまう、と思った。友だちがいないとか恋人がいないとか、そういうものとは質感も重量もまったく違う「ひとりぼっち」は、二十歳の朱音には重すぎた。