わたしたちに翼はいらない

わたしたちに翼はいらない

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 宏明とは、半年前から別居している。かつて夫の実家の敷地内に「建ててもらった」家から、朱音が鈴音を連れて出るかっこうではじまった。新しくうつり住んだのは十五階建ての分譲マンションだが、購入したわけではない。不動産屋が「訳ありですが、悪くない物件があります」と紹介してくれた、賃貸の部屋だ。数年前に男子中学生が飛び降り自殺をして以来、なかなか借り手がつかないのだという。家賃は相場より安い。人は遅かれ早かれ死ぬ。だから朱音は気にしないし、今のところ生活に支障はない。
 離婚を前提に別居を決めた時、明日見市を出るという選択肢もあった。わざわざ宏明や彼の両親のいる街に住み続ける必要はない。その選択をしなかった理由は、父だ。病身でひとり住まいをしている父から、あまり離れるわけにはいかない。
 父は朱音が二十歳の頃に一度、心筋梗塞で倒れた。以来、月に一度ではあるが通院する必要があり、朱音はそれに毎回付き添っている。
「やっと鈴音を認可保育園に入れられたのに」と、「職場への通勤も大変になるし」というのも、明日見市を出ない理由だ。父のことに比べれば些細ささいだが、理由は理由だ。
 今日は宏明に「正式に離婚する前に最後に一度だけ、きみと一緒に鈴音のお迎えに行きたいんだ」とせがまれて、ふたりで保育園に行くことになった。思えば、以前からやたらと「一緒に」にこだわる人だった。洗濯物を干していると「手伝うよ」とやってくる。わたしが洗濯物を干しているあいだにあなたが掃除機そうじきをかけてくれたら同じ時間でふたつの家事が終わるけど、ふたりで洗濯物を干したところでわたしがつかう時間や体力が半分で済むわけじゃないのよ、お迎えも同じ、あなたが迎えに行ってくれているあいだにわたしが料理をすれば時間が短縮できるのよ、と説明しても宏明は「一緒にやったほうが楽しいでしょ」とか「そんなさびしいこと言わずに」と的外れな返答をするのみだった。
「それじゃあ」
「うん」
 しゃがんだ鈴音の頭に視線を落としたまま、宏明はぐずぐずしていつまでも立ち去ろうとしない。まさかこの人、このまま部屋までついてくるつもりなんじゃないだろうか。「ほら、鈴音がさびしがってるから」とかなんとか言って図々しくあがりこんできて、あの家にいた頃のようにわたしがつくった夕飯を食べて「まだ、おれたち家族だよな?」なんて、離婚の話をうやむやにするつもりなんじゃないだろうか。冗談じゃない。