フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理

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 従来、優生思想と闘うためには、往々にして、「人はみな遺伝的にはほぼ同じだ」という、遺伝的同一性に平等の根拠を求めることになりがちだった。その結果として、遺伝的な違いには目をつぶることになる(ハーデンはそれを「ゲノムブラインド」なアプローチと呼ぶ)。だが、目をつぶったところで、遺伝の影響が消えてなくなるわけではない(さらに言えば、人間の遺伝的多様性は残念な事実などではなく、むしろわれわれ人類にとっては資源であり、宝というべきものだろう)。なにより、もしも平等な社会を願う人たちが遺伝の影響に目をつぶったままでいれば、今後大量に流れ込んでくるであろうデータの解釈に空白が生まれ、その空白はたちまち、優生思想に共鳴する人たちの草刈り場にされてしまうだろう。では、平等な社会を望む人たちは、どうすればいいのだろうか?

 それについて考えるのが、本書の第Ⅱ部「平等をまじめに受け止める」の目標だ。

「オルタナティブな可能世界」と題された第八章では、たとえば、あなたが今と同じ遺伝子をもって生まれたとして、社会的・歴史的文脈が違えば、どれだけ違った成り行きがありうるだろうか? と、ハーデンは思考を促す。「異なる社会」を思い描くのは意外と難しいことに私は気づかされたが、歴史が与えてくれる例を見ていくうちに、同じ遺伝子を持っていても、社会が違えば、人生の成り行きは大きく異なることは理解できた。そしてそれを知ることは、優生思想と闘うためのエクササイズになるのだ。なぜなら、ハーデンがたびたび力説するように、「遺伝的な差異には逆らえない、社会を変えようとしてもムダだ」というのが、優生思想のプロパガンダだからであり、われわれは知らず知らずのうちに、そう思い込まされている面があるからだ。

 とはいえ、環境しだいで人生が大きく変わるというなら、いっそ遺伝子の影響などは無視して、望ましい社会を目指せばいいだけなのでは? そう考えたくなるかもしれないが、話はそれほど単純ではない。なぜなら、遺伝子を無視したのでは、環境を変えようとする努力も無駄になりかねないからだ、とハーデンは厳しく指摘する。「「生まれ」を使って「育ち」を理解する」と題された第九章では、そもそも環境の影響を知るためには、まず、環境と絡み合った遺伝の影響を明らかにする必要があることが示される。現状、遺伝の影響に目をつむっているせいで、教育学、心理学、社会学などの分野は、大きな弱点を抱えてしまっている、とハーデンは言うのだ。

 第十章の「自己責任?」では、人はおのれの人生に対し、どこまで責任を負うべきかを掘り下げて考える。というのも、近年の研究から、社会くじと遺伝くじを合わせた誕生時のくじの結果は、自己責任と言えるようなものでは到底ないことがわかってきたからだ。ところが、われわれは相変わらず、人生の成り行きのかなりの部分を、自己責任として片付けてしまいがちではないだろうか? はたしてそれでいいのだろうか?

 第十一章の「違いをヒエラルキーにしない世界」では、生まれ持った違いを「優劣」に結び付ける優生学的な思考パターンから、われわれは自由になれるはずだとハーデンは訴える。そして、そこから自由になることは、遺伝的差異に目をつぶることではないし、むしろ目をつぶってよいはずがない、と彼女は言う。なぜなら、違いのある人間を同じに扱うのは、けっしてフェアではないからだ。発話障害のある子どもと、何の苦労もなくおしゃべりをする子どもを、同じに扱うのはフェアだろうか?

 第二部の第八章から第十一章までを読み進めるうちに、私自身、知らず知らずのうちに優生学的な思考パターンに縛られていた面があることに気づき、たびたびハッとさせられた。その縛りを解くのはけっして容易ではないし、ハーデンはそれが難しいことを熟知している。だからこそ彼女は、最終章にあたる第十二章で、五つの一般原理に対し、「優生学」「ゲノムブラインド」「アンチ優生学」という三つのアプローチを具体的に示して、「アンチ優生学」のアプローチを取ろうと訴えるのだ。

 結局、われわれが本当に試されているのは、「違う社会を思い描くことはできるのか」ということなのだろう。第一章で引用されている哲学者ロベルト・マンガベイラ・アンガーの言葉をここでふたたび引くなら、「社会は作られ、想像されるものだ―それは、基礎的な自然の秩序の表れなのではなく、むしろ人間が作り出したものなのである」。そして望ましい社会を思い描くためには、遺伝学という、自然に関する知識を味方につける必要がある。今後ますます存在感を増していくに違いない遺伝学について考えるために、本書が日本の読者の役に立つことを心から願っている。

 翻訳にあたっては、大阪大学大学院工学研究科生物工学専攻の青木航教授に、原稿を原文対照で読んでいただくことができた。ご専門の生物学に直接関係する部分にとどまらず、全体にわたり貴重なご指摘、ご意見をいただけたことは、訳文のレベルアップに大いに役立った。ここに記して感謝申し上げる。また、新潮社の竹中宏氏は翻訳作業の初期段階で方針について相談に乗ってくださり、同じく足立真穂氏は翻訳を完成にまで導いてくださった。このおふたりに心よりお礼を申し上げる。

◎『遺伝と平等』(キャスリン・ページ・ハーデン 著/青木薫 訳)は発売中です。試し読みと平野啓一郎さんの書評は、こちらから

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遺伝と平等

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