射儀を終えた螞九は、茅のなかに埋もれるようにして寝転んでいた。視界の縁にせり立つ茅の間から、茜色に染まる空が覗いていた。
「不思議だ」
壙を発ってから知らないものを知り、見たことのないものを見た。夕空の色でさえ故郷の玄州と違う色に映る。この世は、新奇なものばかりで占められていた。
不思議といえば、珀嫗の反応も実に不可解なものであった。鵠を射るどころか、まともに矢を飛ばせもしなかった螞九のことを、珀嫗は満面の笑みをもって迎えた。
「いやぁ、よい働きぶりであったのう。おぬしに任せたのは間違いではなかった」
珀嫗は勝利など望んでいなかったのだろう。貧弱な体軀しか持たぬ自らの族人から地神代が出る可能性など、一毛も信じていなかった。あえて螞九のような未熟者を送り出し、道化を演じさせたのである。
ただ珀嫗の意図が察せられても、螞九は腹を立てることもなかった。既に彼の心は弓に占められかけていた。
今年も、最も遠くの鵠を射抜いたのは摯鏡だった。どうして彼は、他の識人より能く弓を扱うことができるのであろうか。同じ弓具を使っても、摯鏡が放てば鵠へ向かって正しく飛び、螞九が引けば力なく落ちる。膂力だけが問題なわけではないだろう。力だけであれば摯鏡よりも優るであろう筋骨隆々の識人たちも、彼に敵わなかった。
螞九はじっと己の手を見つめる。力任せに弦を引いたがために、親指の関節から血が滲んでいた。
「内志正しくして、外体直しくして、はじめて鵠を捉えることが出来る」
摯鏡の言葉を呟いてみる。弓を操るに相応しい心と身体を持ってはじめて矢は鵠に当たる、という意味であろう。
それが真実ならば――、
「己の在り方が、間違っているということか」
「そんなことないよ」
頭の上から応える声があった。
螞九は跳ね起きる。
いつの間にか、傍らに童女が立っていた。飾り気のない麻の衣をすっぽり被っているだけで、異相の顕れは見て取ることが出来ない。だが短く切り揃えられた前髪の下からまっすぐ螞九に向けられたその眼差しは、どんな識人の姿よりも強く印象に残った。
「自信を持ちなよ」
童女は、よくとおる大きな声で言った。
「わたしは、あなたの射方がいちばん良いと思った」
螞九は腰が砕けそうになった。
「何を見ていたのだ。おれが射た矢はまともに飛びもしなかったのだぞ」
「そんなことなかったよ」
螞九は馬鹿にされたのかと思いかけたが、自らに向けられた眼差しに嘲る色は無かった。
「なぜ、そう思ったのだ」
「小さい板に矢を当てたひとはたくさんいたけど、大地を射抜いたのはあなただけだった」
それから童女は、どこまでも広がる茅野に目を遣った。
「捉える鵠がその人のあり方を表しているのなら、自分のことを誇って良いと思うよ」
螞九も彼女が見つめる先に視線を揃える。暮れかけた日の光を受け、茅は輝きを増していた。その景色を眺めていると、胸のなかにあったわだかまりが溶けてゆく気がした。
「おれは弓を知らなかっただけだ。次はもっと上手くできる」
少女は驚いた表情になり、屈託のない笑みを見せた。
「この大地よりもすごい鵠を捉えられるっていうなら、見てみたい」
花だ。
螞九の目にはそう映った。
枯色の茅野に、鮮やかな一輪の花が咲いた。自らの胸中に浮かび上がったその唐突な思いに、螞九はぼそぼそと口ごもる。
「まずは鵠板を射抜けるようにならないとな」
そのとき、彼は心のなかで誓っていた。次こそ、必ずや彼女に見事な弓射を披露するのだと。
二人は短く言葉を交わしただけで、名乗り合うこともなかった。
この出会いは、二人の運命ばかりでなく伍州の歴史を大きく変えてゆくことになった。
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