咄嗟にマヤは大声を出した。
 イグナツは困ったように肩をすくめる。
「まだ主賓の挨拶が済んでいなかったね。でも短めにしてくれ。お腹が空いてしまって仕方ないんだ」
「その前に、お父様にお見せしたいものがあります」
 多忙を極めるイグナツと食事を共にするのは、数ヶ月に一度だけ。この機会を逃すわけにはいかなかった。
「泥徒を連れてきました」と傍らに立つスタルィに目を向け、
「わたしが、ひとりで創り上げた泥徒です」
「ひとりで泥徒を?」
 イグナツはグラスを食卓に戻し、徒弟たちの顔を見回した。
「てっきり、余興の小道具か何かだと思っていたよ」
「差し出がましいようですが」
 神妙な面持ちで有馬が口を挟む。
「マヤ様は工房に収められていた文献を自ら紐解き、独力で泥徒を創造されたのです。私たちが手を貸したということもありません」
「それは本当かい?」
 イグナツは娘に向き直る。父としてではなく、尖筆師としての顔になっていた。
「わたしが目指しているのは、お父様のような尖筆師です。ギムナジウムへの進学は望んでいません」
 それこそ、マヤがこの日に合わせて泥徒を創った理由だった。
 レンカフ自由都市で暮らす女児は、六歳になると義務教育である初等学校に通い、その後の進路は家の懐事情によって分かれる。貧しい家は日曜日のみの補完教室、人並みの家庭は三年制の中等学校、富裕層は六年制の女子ギムナジウムに通う。
 娘のためにイグナツが用意したのは、ワルシャワ第二高等女学校の席だった。だがマヤの望みは学問を修めるより、尖筆師としての技能を身に着けること。そのためには、カロニムス家から離れるわけにはいかなかった。ここには泥徒創造に関する古今の文献が揃っており、何より模範とすべき最高の尖筆師がいる。
 彼女の年齢で曲がりなりにも泥徒を創り得たのは、尖筆師を目指すに相応しい成果のはずだったが─
「自分の行いがどれほど危険なことだったか、理解しているね」
 イグナツが寄越したのは刺すような視線だった。これほど険しい父の顔を、マヤは見たことがなかった。
「尖筆師という職業は常に困難がつきまとう。創造の手順を誤れば、自らの命を失うことにもなりかねない。レンカフ自由都市の外に出れば、いわれのない偏見を向けられることもある。さらには、原初の創造をこの手で凌駕りょうがしようという無謀であり不遜とも謗そしられかねない目標を、生涯に亘って追い続けねばならないんだ」
「わたしが望むのは、そのような生き方です」
 いささかの躊躇ちゅうちょもなく、マヤは応えた。
 イグナツは目を細める。しばらく娘の瞳の奥を覗き込んでから、ぽつりと呟く。
「ならば、計画を練り直さなくてはならないね」
 続けて「諸君!」と声を張り上げた。
「乾杯をし直すことにしよう。今日は二重のお祝いだ。ひとつは、マヤの十二歳の誕生日に。そしてもうひとつは、マヤという新しい尖筆師を仲間に迎えた、ぼくたちのために」
 強張こわばっていたマヤの表情が、春を迎えた若芽のようにほころんだ。
「お父様の言葉は、わたしにとって何よりの贈り物です。きっとカロニムス家を継ぐに恥じない、素晴らしい尖筆師となってみせます」
 すると、グラスを掲げようとしていたイグナツは手を止めた。
「マヤなら、きっと素晴らしい尖筆師になれるよ」
 それから悪びれもせず付け加える。
「でも、カロニムス家を継ぐのはきみじゃない。ぼくの全ては、ここにいるザハロフに渡すと決めているんだ」
 息を飲む音が重なり合った。
 イグナツが、血縁のないザハロフに家長の座を譲るつもりだったと知る者はなかった。いや、当のザハロフがそのことを聞いていたかは分からない。彼は事の成り行きにまるで興味がなさそうに、灰色の瞳を空のグラスに向け続けていた。

                                      (つづく)