【試し読み】わたしとあなたが恋をしないと、世界は終わる――緒乃ワサビ『天才少女は重力場で踊る』

『天才少女は重力場で踊る』刊行記念特集

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 卒業単位欲しさに訪れた研究室で俺を迎えたのは、目鼻立ちは整っているが、異様なまでに不機嫌な少女だった。信じられないことだが、彼女は17歳にして既に教授だという。いちいち突っかかる彼女にはうんざりだったが、背に単位は変えられない。俺はいくつかの条件を受け入れた。
 もう一人の老教授になだめられ、連れて行かれた先は、駅前にあるパチンコ屋の跡地。何だか分からないまま階段を下りると、そこには見たこともない巨大な機械があった。
 それは、未来との交信を可能にするリングレーザー通信機。
 起動実験の後、うっかり未来を観測してしまった俺は、自分と世界の存在を不安定なものにしてしまう。
 世界と自分を救う、たった一つの方法とは?

天才×美少女×タイムパラドックス×暴走する量子
=世界を揺るがす青春小説&ちょっとミステリ

 ノベルゲーム「白昼夢の青写真」で話題の緒乃ワサビのデビュー作から、丸々第一章を特別公開します!

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天才少女は重力場で踊る

天才少女は重力場で踊る

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第一章 不機嫌な天才少女

 一石かずいし教授の研究室は、田端たばた駅から歩いて五分もかからない場所に建つ古びたマンションの一室だった。昔の洋画に出てきそうな建物で、どうにも田端の風景からは浮いている。エレベーターはなく、一フロアごとに折り返す階段が最上階まで続いている。その階段を五階まで上がった。
 扉にはKazuishi Labと表記がある。ここだ。旧式のインターホンを押すと扉の向こうから大袈裟なブザーの音が聞こえた。しばらくして扉が開いた。
 髪の長いほっそりした少女が憎々しげな視線を俺に向けている。オーバーサイズの黒いセーターは、彼女の線の細さをより際立たせているように見えた。
「帰って」
 彼女は仁王立ちでピシャリと言った。あまりにも明確な拒絶にさすがにたじろぐ。出鼻を挫かれた俺は「あ、え」と妙な声を漏らした。彼女はまばたきもせず、混じりっけのない怒りを俺にまっすぐ向け続けている。
「どこかで、会いました…か?」
 やっとのことでそう返した。少女は表情を変えずに俺をにらみつけている。こんな表情でなければ、コンビニに並んでいる雑誌の表紙を飾っても不思議でないほど整った顔だった。
「帰って」
 彼女はもう一度そう言った。奥からのんびりとした笑い声が聞こえてきた。
「追い返してどうする」
 彼女の背後から巨大な老人が灰色の煙をまとって歩いてきた。煙は彼の咥えているパイプから立ち上っていた。七人のこびとの一人が、そのまま巨大化したような見た目だった。
「いらっしゃい。学生さんだね。待ってたよ」
 彼はパイプを手に持ちながら言った。
「待ってなんかない。先生、わたしは反対です。大反対」
 少女がそう言って老人を見上げる。
 老人は彼女を諭すように首をかしげてみせ、俺には手招きをしてからパイプを咥え直し、煙を吐き出しながら部屋の奥に向かった。機関車のような人だ。
「信じられない…」
 玄関に残された彼女はこの世の終わりのような表情でそう呟き、悲壮感を漂わせながら老人のあとに続いた。
 入っていい、ということなのだろうか。
 絶対に仲良くなれないタイプの女子。やたらと巨大な老人。それが二人に対して抱いた第一印象だった。
「おじゃまします」
 誰にともなく呟いて、俺も部屋の中に入った。
 薄暗い廊下を抜けると、空間を贅沢に使った大部屋が広がっていた。ど真ん中にある大きなテーブルにはどっさりと本が積み上げられている。壁を埋め尽くすように配置された本棚にも溢れんばかりの本が詰め込まれていた。本、埃、そしてパイプの甘い煙。それが広い空間を埋め尽くしていた。
 大きな老人は窓際のL字デスクに腰掛けた。そこが老人の定位置のようだ。
「来客はほとんどなくてね。そこの椅子使っていいよ」
 彼が指差した先には、椅子と譜面台と二本のアコースティックギターが並んでいた。
 見る限り作業用のデスクは二つ。主に二人で使うのを想定したレイアウトのようだ。
 俺はギターの横にあった椅子を、真ん中のテーブルの近くまで持ってきて座った。
 不機嫌な少女は、自分のL字デスクの椅子に座って腕と足を組んでいた。
 老人は自分のデスクに散乱した紙と本の山からなにかを探している。
「あぁ、あったあった」
 A4のペーパーを手にした老人が、回転式の椅子でくるりと回ってこちらを向いた。いつの間にか太縁の老眼鏡をかけている。
万里部まりぶこう
 俺の名前だ。俺はうなずきを返す。
「マリブコウくん、そんな名前のカクテルがあったな」
 老人はくぐもったような低い声で笑った。
「あなたね」
 不機嫌な少女が相変わらず冷たい声で言った。彼女が続ける。
「この研究室がどれほど革新的な研究に取り組んでるかわかってる? わかってるわけないわよね。わかってたら学部生の分際でのこのこやってくるはずがない。いい? 先生は天才なの。学生の指導なんてしてる暇はない。あなたが欲しいのは知識でも経験でもなく単位でしょう?」
 そこまで一息に言って彼女は立ち上がった。
「先生、今すぐ彼に単位をあげましょう。それが、この場にいる全員の課題を同時に解決する最適解です」
 彼女の演説を黙って聞いていた老人が、小さく笑いながらパイプの煙を吐き出した。
「そうはいかないよ。それに、彼にだって優れたところはある。万里部くん、きみは履修登録した単位を一つも落とさずに取得している。実験は三年間無欠席。非常に勤勉なんだね」
「まぁ」
 確かに、大学に入ってから単位を落としたことはない。
「くっだらない…」
 少女は憎々しげに言って、どかっと自分の椅子に座った。
 俺は小さく手を挙げて言った。
「あの―」
「なによ」
 すぐに少女が答える。彼女の提案―今すぐに単位をもらえる、というのは確かに魅力的な内容ではある。だがその前に、この子は一体なんなんだ? おそらく、パイプを吹かしている老人のほうが一石教授だろう。
 そもそもこの少女、俺より年下じゃないか? 大学で見かける新入生よりも若く見えるくらいだ。彼女はずっと、なにに苛立っているのだろう。
 確かに俺には人に自慢できるような特技があるわけではないが、だからといって初対面の相手にここまで邪険にされる覚えもない。
「一石教授と話したいんだけど。きみじゃなくて」
 俺がそう言うと彼女は眉間に深く皺を寄せた。西洋人形のように整っていた顔が般若のようになっていた。俺はそれを無視して老人のほうに顔を向けた。
「一石教授、ですよね」
 老人はゆっくりうなずいてから少女のほうに視線を向けた。
三澄みすみくん。きみはそろそろ講義の時間じゃないかい」
 三澄と呼ばれた少女は壁に掛けてある時計をチラと見てから、不満げに目を閉じた。
「下らない仕事ばっかり。録画で事足りるのに」
 三澄はそう言ってノートパソコンを持って立ち上がった。
「わたしたちの研究を学生に手伝わせるなんて嫌です。意味がない。必要なことはわたしが全部やれます」
「ほら、講義講義」
 老人が朗らかに言う。三澄はため息をついてから部屋を出て行った。廊下につながる扉越しに、もう一度扉の音が聞こえた。どうやら別室に移動したらしい。
「ちょっと気性の荒い子なんだ。慣れるとかわいく思えてくるよ、小型犬みたいでさ」
 一石教授が冗談めかして言った。
「彼女も学部生ですか?」
 そう聞くと一石教授が低く笑った。
「年齢は学部生のほうが近いかな。彼女のほうが若いけどね。ただ、講義は院生向けだ」
 俺は目を見開いた。
「飛び級、ってやつですか」
「日本に飛び級制度はない。彼女は教える側だよ」
 今度は目だけではなく口も開いてしまった。
「教授、ってことですか、あんなに若い子が?」
「正確に言うと特別招聘教授。大学に雇われているわけではない。まぁとにかく。彼女はああ言ってるが、ここにはきみに頼みたい仕事がある。その話をしよう。そのためにはるばる田端までやってきて、階段を百二十六段も上ってきてくれたんだろう」
 確かに、改札を出てからやたらと階段を上った。この建物の前にも階段があった。
「田んぼをね、段にしてたくさん作っていたらしいよ」
 一石教授はのんびりと言った。たくさん田んぼがあって、田端、か。なるほど。
「さて。確かにここはちょっと特殊な研究室ではある。紙とペンがあれば成立する理論物理学の研究室なのにキャンパス外にある。それにはもちろん、理由がある」
 そう言って一石教授はパイプを吹かした。実にうまそうに吸いこんだ煙を吐き出して一石教授が続ける。
「専門家だけで話していると視野狭窄に陥りやすいんだ。こう見えて私も彼女も物理学にはそれなりに明るい。世間から見れば希少種だね」
 むしろ一石教授の風貌は物理学者のイメージを体現しているような気もする。パイプに長い白髪。連想されるのは世界一有名な物理学者、アルバート・アインシュタインだ。
 一石教授はなにかを探るように上目遣いで俺を見つめながら、パイプを握った手の指をピンと立てた。
「きみは物理学が好きかい?」
 そう言って口元に笑みを浮かべる。彼の低くゆったりとした声には、人の警戒心を解きほぐす不思議な響きがあるように思える。俺も一石教授につられて薄く笑った。
「あまり。入学したときは好きだったと思います。ずっと夢中ではいられませんでした」
「物理学科を選ぶ理由は、物理学が好きであること以外にはないだろうね。まぁ、情熱は冷めていくのが普通だよ」
「はい」
 それと、大学一年のときに家庭の事情が変わったこと―その言葉はのみ込んだ。初対面の相手にペラペラと話すようなことでもない。大筋は一石教授の言うとおり。物理学に対する俺の情熱は、確かに冷めていた。一石教授がまた口を開く。
「それでも単位は落とさなかった。根が真面目なんだね。電子回路関連の実習はすべて最高評価、手先が器用なのかな」
 一石教授は目を輝かせてにんまり笑った。
「そう、なんですかね。細かい作業は好きです」
「備考欄に面白いことが書いてあるよ。二〇二二年の後期試験について。コロナの変異株が騒がれていたときだね」
「あぁ」
 思わず苦笑いしてしまった。
 一石教授が手元のペーパーを読み上げる。
「新型コロナウィルスの感染状況に鑑み、フランス文学史の評価は教室での筆記試験かメールでのレポート提出の選択式となったが、本学生は筆記試験を選択した唯一の学生」
 一石教授はくすくすと笑った。
 あの日のことはさすがによく覚えている。試験会場の教室に入ったとき、試験官のほうが驚いていた。俺もまさか試験を受けにきたのが自分だけとは思わず、むしろ肩身の狭い思いをした記憶がある。
「真面目なのかな」
「いや―もともとの予定が変わるのがなんか気持ち悪くて。それに、レポートよりは試験のほうが自分の理解度をちゃんと測れるかな、と」
「若干神経質。そして、公平性を重んじる」
 一石教授は深くうなずいて続けた。
「きみのような人にきてほしかった。期待以上だよ。万里部くんは、配属研究室の希望を出さなかったね。卒業後は働くのかい」
「はい。広告代理店から内定をもらってます。ほとんどまぐれのようなもので、向いてるかわかりませんけど」
「いいじゃないか。無理に労働に意義を見出す必要なんてないよ。嫌になったら別の仕事を探せばいい」
 就職活動の場で言われることと真逆のことを一石教授は言った。俺はこの老人に好感を抱いた。
 一石教授は自分の手元から立ち上る煙を眺めていた。しばらくそうしてから、その視線を俺に戻した。
「ゆっくり会話できる時間は限られている。講義が終われば彼女が戻ってくるからね。それまでに万里部くんとの取り決めを整理しておこう。嵐がくる前に身支度を済ませておかないと大変なことになる」
 一石教授がニヤリと笑う。俺も小さく笑った。一石教授は手に持ったパイプを上から眺めて、自分のデスクに置いてあるコルク付きの皿に灰を捨てた。
「私と三澄くんが取り組んでいる研究内容は秘匿してほしい。私たちは当面、今の研究を発表するつもりはない。関係者はある程度いるけどね。これは私と彼女の、なんというかな…、ロマンの追求なんだ。純粋に自分の好奇心に従って遊んでいる。子供のように」
 俺は一石教授の言葉について考えた。研究にも、遊びのようなものとそうでないものがあるということだろうか。黙っていると、また一石教授がゆっくりしゃべり出した。
「で、実は万里部くんにうってつけの仕事があるんだ。それほど物理に明るくなくても大丈夫」
「なにをすればいいんですか」
「これから私たちはある装置を起動する。理論の実践、机上の空論からの脱却だ」
「装置―なんのですか」
「起動実験がうまくいけばどんなものだかわかる。それから、万里部くんにお願いしたい内容もそのあとに伝える。何事にも順序というものがあるだろう?」
 一石教授はそう言ってから、なにかを思い出したように眉を上げ、また雑多な机でなにかを探し出した。
「あぁ、あったあった。これにだけは先にサインをもらっておけって、二階堂にかいどうくんが言ってたんだ」
「サイン、ですか」
 一石教授が俺に差し出した用紙には『機密保持契約書』と表記があった。まったく同じ紙が二枚ある。
「秘密を守りますという約束を交わすもの、らしい。仰々しく書いてあるが、ようは指切りげんまんの上位互換だよ」
 指切りげんまんの上位互換。嘘をついたら何本の針を飲まされるのだろうか。
 読み慣れない文章ではあったが、びっしりと書かれた文章すべてに目を通した。
 秘密を守らなかったときに届け出る裁判所まで明記されている。
 確かに、指切りげんまんの上位互換と言える内容だった。
 気になったのは最後の署名欄だ。
 株式会社一石工学研究所、代表取締役、一石余市よいち
「ここって、会社なんですか?」
「あ、うんとね、そうなんだよ。ちょっと込み入った事情がある。あとで私より端的に説明のできる人間を紹介するよ。万里部くんはあくまで、理学部所属の一石研究室として受け持つから大丈夫だよ」
 少し疑問は残ったが、約束通り秘密を守っていれば害のない内容だったので二通の書面にフルネームの署名をした。一石教授はそれを受け取り、一通は俺に戻した。