大学はレジュメを配布してレポートを書くだけの授業が多く、前期日程の半分が終わるころには要領がわかってずいぶん手を抜いて受けていた。前期授業が期末に差しかかると、レポートや期末試験の内容が次々に発表された。毎日何時間もパソコンの前に座っている日々は、頭だけが重く疲れて、体が取り残されていくみたいだった。空想の未来人のイラストみたいな。頭だけが大きくて、腕と脚はひょろひょろした、アレに自分がなっているような感覚がする。
 オンライン授業の拡大によって、ニュースでは「大学生の3割がノイローゼ」とか「退学休学を考えている学生が急増」とかの報道が増えてきた。夏生も授業開始から2か月が経っても、Francfrancの家具がひとつもない狭い部屋で孤独をもてあましていた。
「ぼく童貞なんだよね」
「え、そうなんですか? 見えない」
「いやいや、ぼくにはそういう追従いいよ。ぼくなんて一生彼女できないまま死んでいくんです」
 あれから、ジュンさんとはふたりでZoom宅飲みをするようになっていた。その日のジュンさんはずいぶん沈んでいて、なんでもTwitterでなかよくなった地雷系ギャルとオフパコしようとして集合場所に現れたヤンキーに3万円カツアゲされたらしかった。彼は青春がしたい、彼女がほしい、ぜんぶコロナのせいだ、と呪詛を吐いた。
「ほんとに、コロナのせいで好きな人ができても会えませんもんね」
 ジュンさんは感染症が蔓延していなくても彼女はできなかっただろうなあ、という胸の内を隠して言いながら、夏生は高遠先生のことを思い浮かべていた。
 授業がはじまって半年が経とうとしているのに、高遠先生とはオンラインか電話でしか話したことがなかった。対面授業再開の目処も立っていないいまの状況ではしょうがないとわかっているけれど。
「ありがたいふくらみをたまわりたい」とジュンさんがうめくように言う。
「ありがたいふくらみ?」
「川端康成の『雪国』にある一節。掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た」
 いぶかしむ夏生に、ジュンさんは一節そらんじて、おっぱいを揉むジェスチャーをしてみせた。
「ぼく、一生クソ童貞でだれと触れあうこともないまま死んでいくんだと思うと本当にW大に入った意味なかったなって思うんだよね。いま風俗に行ったら自粛警察に叩かれること必至だし、ただでさえ大学生が乱行パーティクラスター起こしてYahoo!ニュースになってたし。Withコロナオンライン社会の童貞は金を払ってもありがたいふくらみを賜れないんです」
…賜りたいものですか?」
「賜りたいね」
 夏生は目の前の画面でしゃべっている男の人がなんだかとてもかわいそうになった。この世代の本当の不幸は、大学生の輝かしい青春という幻想を捨てきれないまま大学生活を送ることだ。
「彼女が…彼女ができたら、ぼくの人生、変わる気がする」
 夏生が黙っていると、ジュンさんはあわてて「あっ、あの、女の子にこんなこと話してほんと気持ち悪いよね、クソ童貞陰キャが喋ってるだけで気持ち悪いのにさらに憎悪の根拠を増やしてごめんね」と謝り倒した。
「ウン、たしかに気持ち悪いです」と言ってみると、彼がわかりやすく傷ついた顔をしたので、楽しくなる。「はやくコロナが収束するといいですね」とにっこり笑って、インスタで見かけたレンタル彼女サービスを紹介してあげた。

 タピオカは想像よりぐにぐにしていて、カエルの卵みたいで、ほのかな甘みはあるけれど単体では食べられたもんじゃなかった。夏生はタピオカをいつまでも口の中でぐにぐに噛みながら、スマホをいじっていた。
「シンプルに顔面が強い」
「わかる😇 あの人何歳なん? 30? 40?」
「わかんない、っていうか大学教授なのに本名もわからんってなに」
「シニフィアンを明らかにしない主義なんじゃない笑笑」
能記シニフィアンな笑笑」
 メッセージは光の速さで流れていく。そのLINEグループの招待が届いたのは一昨日だった。グループ名は【tktoセラピー分室】。簡単に言ってしまえば、高遠先生のファンクラブみたいなグループらしかった。既読をつけないように、メッセージを長押しして眺めていたら、また通知が増えた。
「オンデマンドの講義のさ、この回の高遠先生ビジュ最高。URL:https://…45分21秒?の『語り手の人称の外にある出来事の時制すなわち無限定過去アオリストにおいては、出来事自体が自ら物語る』ってエロくない? 口の動きが」
「イミフすぎ笑笑 でもわかる」
無限定過去アオリストはイイ」
 グループメンバーは6人で、インスタで高遠先生の写真をあげていた柚愛とそれに返信していた沙也加さやかが主に会話していた。柚愛に「なんでわたしもグループに?」とLINEで聞いてみたところ、「インスタで『先生のおすすめだって🥰🥰』ってボヴァリー夫人の文庫本の写真載せてたの、高遠先生のことでしょ?」とすぐに返信がきた。するどい。柚愛がスクショをあげた日だった。隠れてマウントを取りにいっていたことがバレているとわかり、赤面しながら「高遠先生いいよね」と送ると、「女子校の王子様感。無害そうだし」ときた。言い得て妙だった。
 高遠先生は、徹底的に無害だ。否定しない。常に肯定してくれるし、落ちこんでいたら慰めてくれる。東京のスマートな大人の男性像の範疇はんちゅうにずっといてくれる。推しに最適だった。大学の教員を推すなんて変な話だけれど、高校の先生を好きになる女子とパソコンの向こうのYouTuberを好きになる女子の究極融合アルティメット・フュージョンみたいなものだった。
 その日の水曜1限の授業中は、ずっと先生の顔を見つめていた。細面の、涼しげな顔立ちだ。目は垂れ気味でくっきりとした二重。人がよさそうにも、抜け目なさそうにも見える。口が小さい、どこか女性的な雰囲気をもつ容貌だった。Zoomのパソコン越しなら、目が合う心配がないから、いくらでも見つめていられた。一般的には「顔面が強い」になるのだろうけれど、顔自体はどうでもよかった。わたしは柚愛たち顔ファンとはちがう、と夏生は思う。カミュを熱く語る高遠先生に、好感をもったんだから。
「今日は元気がなかったですね」と授業後に先生がZoomで話かけてきても、夏生はやっぱり先生の顔をまじまじと見ていた。
 今朝、『コロナ禍で急増! オンラインサロンにハマる若者たち』というニュースを見たばかりだった。オンラインサロンの会員数はそれ以前の1.5倍になっているとか。夏生はもちろん入ったことがない。でも、ハマる人の気持ちはわかった。授業のたびに電話がかかってきて、毎回『夏生さんは新批評主義ニュー・クリティシズムにも造詣が深いんですね、素晴らしい』なんて肯定されつづけて、こんなのオンラインサロンよりタチが悪い。二重幅が広いなあ、と思いながらごまかす。
「そうでしたか? ちょっとぼーっとしてたかもしれません。夏バテですかね」
「夏バテ。大変ですね」
 彼がほかの大勢の生徒に話すときの口調と夏生という個人に話すときの口調はどうということはできないけれど明確にちがった。先生はその、どうということはできないけれど明確にちがう声で「ぼくが昔から愛飲している水があるんですが、お試しでお送りしましょうか。安全な水ですよ。健康によくて、コロナにも効くんです。ぼくもこの水のおかげでマスクなしでも感染していませんし、知人にはこの水でがんが治ったひともいますし、布マスクに水を染みこませれば万病に効くんです。頭からかぶるのも効果的で」と延々説明してくれた。夏生はふっとおもしろくなってしまって、聞いた。
「先生、ちょっとテキトーなことを混ぜてませんか」
「混ぜてませんよ、ぜんぶ本当です」
 先生はずっと真剣な顔をしていた。この人が本当って言うなら本当なのかも、と思わせる顔だった。
(つづく)