第五話 満州国と二十面相【3】
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前回のあらすじ
1931年、柳条湖事件が勃発した。緊迫する情勢のなかで、千畝は親しい犬沢の情報を信じて動くことになるのだが……。
三、
それは、ハルビンに早い冬が訪れようとしていた十一月十一日のことだった。
「天津の日本租界から、溥儀の姿が消えたそうだ……」
職員を集めた大橋総領事は、沈痛な面持ちで告げた。
溥儀は、一九一一年に辛亥革命によって滅ぼされた満州人国家、清の最後の皇帝である。故国が滅亡したあとは北京の紫禁城を追われ、天津の日本租界にある静園という家屋に住んでいた。その溥儀が、家族や召使いとともに忽然と姿を消したというのだ。
「どういうことですか。誰かが拉致して殺害を?」
若い同僚が真っ青な顔で、総領事に訊ねた。
「わからん、だが」胃でも痛そうな表情で大橋総領事は告げる。「天津では二日前より関東軍の息のかかった、自治救国軍なる一団が暴動を起こしている。その暴動の混乱中に、溥儀はいなくなったんだ」
また関東軍か――同僚たちがざわめく中、千畝は足が震えてきた。
暴動に乗じて要人を連れ出す? まるで明智小五郎と対峙する悪人のしわざのようだ。だがこれは作り物ではなく、現実の世界だ。
「杉原!」
同僚の一人が千畝の顔を見た。
「お前、関東軍や満州人の情報にも通じていたはずだろう。聞いていなかったのか」
「すみません……ここのところソ連の動きに集中していたもので」
正直にそう答えながら頭に浮かぶのはもちろん、川島芳子の顔である。愛新覚羅家の血を引く彼女が今回の計画を知らなかったはずはない。ところが、わずか三日前にポリーナを通じて久しぶりに得た犬沢のメモには「特に動きなし」とあった。川島と犬沢……満州人と関東軍……。
それからわずか二週間後である。事件後、天津に残っていた溥儀の妻もまた、姿を消した。その謀略を指揮したのが川島芳子らしいとの情報が、奉天の総領事館からもたらされたのだった。
もはや千畝の疑惑は確信へと変わっていた。
十二月の初め、ハルビンでの勢力を示すため、関東軍がキタイスカヤ通りを行進するパフォーマンスを行った。沿道にはハルビン中の日本人が押し寄せ、旗を振って関東軍の勇敢さを称えた。
千畝は群衆の中でただ一人、旗を持たずにその行進を見ていた。舞い散る雪の中を、規律正しく両手を振り、足を上げ、軍靴の音を揃えながら進んでいく関東軍。歓声を上げる日本人たちの目には、その姿が勇敢な兵士たちに映っているのだろう。
外交官たる千畝にはそうは思えない。関東軍も同じ役人のはずだ。政府からも、陸軍省からすらも離れて勝手に軍事行為を拡大させるなど、あるまじきことだ。広大な満州を強引に制圧しようとする野蛮な集団である。
「杉原さん!」
行進の中から声がした。頬に下向きの矢印のような傷を持つその男が、満面の笑みで手を振りながら、目の前を通過していく。
「今夜九時、ポリーナの店で」
全身が寒くなる感覚に見舞われる。どうしてあんな笑顔を向けられるのだ……。