むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

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「ああ…私の中学の先輩で、平井太郎さんというのです。汽車の中でばったり出会いまして」
 太郎はひょこりと頭を下げた。広田も軽く会釈をして不思議そうな顔をしている。
「江戸川乱歩という筆名のほうが有名かと思いますが」
 ややためらったような間をあけて、杉原は言った。広田の小さな目が見開かれた。
「なんと。探偵小説家の江戸川乱歩さんか」
「ええ、まあ、はい」
 そこそこ名が売れたとはいえ、外務大臣を務める政治家が自分のことなど知っているとは思わなかったので、恥ずかしくなった。杉原もまた、意外そうな顔をしていた。
「あなたにも少し話したいことがある。ちょっと彼との話を先に片付けてしまいますからお待ちください」
 広田はそう言って、浜のほうへと歩き出す。
 その後二十分ばかり、太郎は二人の数歩後ろを離れてついていった。二人の話はもっぱら、満州の鉄道買収のことだった。ソ連の提示額との開きが縮まらないこと、ソ連側の代表の人となり、満州の情報網から入ってくる鉄道経営の内情など、杉原が広田の知りたいことを的確かつ簡潔に報告しているのは、太郎の目から見ても明らかだった。時折混じるロシア語や中国語の発音からも、杉原千畝ちうねという男の才覚が伝わってきた。
「やあ江戸川さん、お待たせしました」
 ひとしきり杉原の報告を受けたところで、広田は振り返った。柔和な笑顔だった。
「お話ししたいことがあるとおっしゃいましたね」
「ええ。夢野ゆめの久作きゅうさくという男を知っていますか」
 太郎は驚いた。江戸川乱歩以上に、政治家の口から出るのが予想外の名だったからだ。
「もちろん知っております。昨年も『新青年』に『斜坑』という作品が載りましたが、なぜまた夢野君のことを訊くのです?」
「福岡の修猷館しゅうゆうかんという中学の後輩なのです。といっても面識はないが、彼の父上には学生のころから大変お世話になっていましてね。杉山すぎやま茂丸しげまるさんというのだが、知らないですか」
 そういえばそんなことを森下さんが言っていたかもな、と太郎は思った。作品に興味はわいても、作家の周りのことまでは覚えていないのである。
「江戸川さんから見て、夢野久作の作品はどうでしょうか」
 探偵小説なら自分の分野だとやる気が出た。もともと高く評価していた若手である。『斜坑』と、何年か前に読んだ『押絵の奇蹟』の美点について、我も忘れて語った。
「きっとあの他者にはない感性で、そのうちものすごい長編を仕上げるのではないかと、期待しておるのです」
 しゃべり終える頃、太郎は高揚としていた。
「そうですか、江戸川乱歩さんが褒めていたと杉山さんにお話ししたら、喜ぶでしょう」
 広田もまた満足そうだった。
「もっと話をしたいのだが、立て込んでおりましてね」
「ああ、これは失礼しました。つい、話しすぎてしまいました」
 広田が一国の外務大臣なのだということを、太郎はようやく思い出した。失礼、と言って去る広田を見送った。
「立派な人だね」
 ずっと黙っていた杉原に言うと、「ええ」と彼は返事をした。
「立派な方です。これまでの外務大臣の方と比べ、常に東アジアの平和を念頭に置いていらっしゃる。あの方のために、今回の交渉は必ず成功させねばと思っています」
 しかしその声はどこか、沈んでいた。
「平井さんは、ご自分の使命を全うしていらっしゃるようですね」
「使命だなんて大げさだよ。それを言うならセンポくんのほうが立派な使命を果たしている」
「そうでしょうか」
 杉原は言った。
…実は帰国してから、いくつか読んだんです、江戸川乱歩の作品を。以前読んだ作品より、妖しくておどろおどろしい雰囲気は増していた。読者の恐怖も喚起されるというものでしょう。しかし私には―こんなことを言っては失礼でしょうが、やはり、作り物としか思えませんでした」
「作り物なんだ、仕方あるまい」
「本当の暴力というのは、もっと酷いのです。軍による暴虐。満州人も漢人もみな、人とも思えない扱いを受けている。彼らは外交にも平気で口を出してきます。五族協和、王道楽土など、そこにはありません。…私は今、そんな国の役人として働いているのです」
 目の奥にどうしようもない暗さが宿っていた。本当の惨状を見てきた目だった。しかし…と太郎は思った。それ以上に彼から感じるのは、
「孤独、か」
 口に出すと、彼の表情が変わった。やはり。かつて自分が感じていたような孤独感が漂っている。きっと杉原はその生真面目さゆえ、同僚にも家族にも悩みを打ち明けられずにいるのだ。
 話してみたまえ、と言える度量を持ち合わせていたらどれだけよかっただろう。作家としての道を見失っている今の太郎に、杉原の悩みを受け止める余裕はなかった。
「友人がいるのはそれはそれで辛いことだよ。みな、私の次の作品を待っている。私が本当に書けない男ならよかった。書けてしまうのだ。仕事を与えられ、いついつまでに原稿を取りにきますと言われれば、こなしてしまうのだ。だが、それでできた作品が何だというのだ。『納得いかない』という気持ちがどんなものだったかももう忘れてしまった」
 話しているうちに、早口になってしまった。混乱を初めて、口にしたのだ。
「いったいどういう作家像、どういう生き方を自分が求めているのかも、もうわからないんだ!」
 叫んでみてもただの独白だった。空気に向かってしゃべっているようだった。
…小説のことを話すつもりはありません」
 突き放すように、杉原は言った。
「私は作り物ではなく現実に生きています。酷いことを言って、申し訳ありません」
…いや」
「私たちはもう、会わないほうがいいのかもしれませんね」
 太郎は杉原の顔を見つめ、うなずいた。波の音が、耳についた。
「君はもう、東京に戻るんだろう?」
「はい」
「私は江の島あたりで宿を探すことにするよ。それじゃあ」
 軽く手を上げる。杉原は深く頭を下げると、何も言わずにきびすを返した。
 すっかり外交官となったその背中を見送りながら、同じなのだな、と太郎は思った。進む道があまりに違いすぎるがゆえ、気持ちは同じなのにすれ違ってしまった。
 太郎もまた彼に背を向け、歩き出す。
 足の裏に、水を吸った砂の感触が絡みつく。いっそこのまま、ずぶずぶと砂の中に埋まっていってしまいたかった。

(つづく)
※次回の更新は、4月5日(金)の予定です。