むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

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「本日はッ! 三宅信三しんぞう君の足の全快を祈りッ! エールを送りたくッ! 古関こせき先生、どうぞッ!」
 すると、彼らの後ろから申し訳なさそうに、灰色の背広に身を包んだ男性が入ってきた。学生ではなさそうだが、ずいぶん若い。二十二、三歳ではないだろうか。
「お騒がせしてすみません。古関裕而ゆうじと申します」
「古関先生はッ! 日本コロムビア専属の作曲家の先生でありますッ!」
「去年、早稲田は早慶戦で全敗だったでしょう」
 三宅君が説明をしながら、坊主頭の彼の肩をぽんぽんと叩く。
「それでこの伊藤君の伝手つてを頼って、今年の春、古関先生に新しい応援歌を作っていただいたのです。この歌で早稲田の観客と選手は心が一つになり、見事慶応を撃破したのです」
 初めて早稲田を訪れたときに至近距離に白球を落とされてからというもの、隆子は野球にあまりいい印象を持っていない。苦笑いで反応すると、
「皆さんも共に、歌おうではありませんかッ! 早稲田大学第六応援歌『紺碧こんぺきの空』ッ!」
 応援部の彼が大声を張り上げたので背中がびくりとした。古関という作曲家はすでに三宅君の案内でオルガンの前に座っている。
「奥さん、何がはじまりますの?」
 横溝さんが訊ねるのと同時に、オルガンから勇ましい前奏が響き渡った。やがて、応援部員たちは肩を組み、応援歌の熱唱が始まる。
『紺碧の空 仰ぐ日輪
 光輝あまねき 伝統のもと…』
 それはたしかに、聞く者の気分を高揚させる曲だった。ただ、この下宿で歌われても騒いでいるだけにしか見えない。他にお客さんもいるのに、と振り返ると、横溝さんは立ち上がり、応援歌に合わせてぶんぶんと手を振っていた。
「いやあ、やっぱり学生さんは元気でええですな」
 応援歌が終わるなり、横溝さんはわははと笑った。
「どこのどなたか存じ上げませんが、共に早稲田を応援しましょう!」
 応援部の一人が、横溝さんの手を握る。
「共に慶応を倒すのです」「向こうが陸の王者なら、こちらは天下の覇者です」「打倒慶応!」「打倒慶応!」
 ひとしきり騒いだかと思うと、彼らは古関をたきつけた。
「ちょっとあなたたち、もう少し静かに歌えないの?」
 たしなめる隆子に「ええやないですか」と横溝さんは言った。
「何事かって、乱歩さんが仕事場から出てきよるかもしれん。ねえ、林さん」
 と見ると、林はソファーの隅で縮こまるような姿勢になっていた。その顔は青ざめている。それを見て「しもた!」と横溝さんが自分の額を叩いた。
「林さんは慶応義塾大学のお人やった」
「私はもう、おいとましたほうがいいでしょうね…」
 青ざめる林を横溝さんが宥めようとする後ろで、再びオルガンが『紺碧の空』を奏で始める。応援部の面々が肩を組んだそのとき、
「母さん!」
 廊下からひょっこり隆太郎が顔を出した。オルガンの音がやむ。
「父さん、また旅行に行っちゃったみたいだよ」
 息子は手に、書置きらしき紙をひらひらさせていた。
「なにっ?」
 横溝さんが隆太郎のそばに飛び、その書置きを掴む。
「『しばらく旅に出る』て、ほんまか隆太郎?」
「うん。旅行カバンがないもん」
 そろそろだと思ったわ―隆子はそう思いながら首をすくめるだけだった。

(つづく)