猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「満州で、鉄道が爆破された事件、ご存じですか?」
 オルガンの上の荷物をどかしながら、三宅君が訊ねた。
「中華民国は日本の関東軍の仕業だと主張しているのだそうですが、そんなわけはありません。満州経営の生命線たる鉄道をなぜ関東軍が爆破しなければならないのか。あちらの主張は破綻しています。連中は日本と戦争をするつもりかもしれません」
 彼の中で怒りがふつふつと燃え上がっているようだった。隆子は新聞を読まないので、世界で何が起きているかはほとんど知らない。それでも二年前の秋から物価が高くなっているのは感じている。ニューヨークで株が大暴落した影響だそうだが、それまでの好景気が一気に不景気になり、世間も殺伐としているらしい。
「戦争なんて、物騒ね」
「連中の暴挙を鎮めてやるには仕方がありません」
 勇ましい顔をしているが、隆子の胸中はざわつくばかりだった。先の世界大戦のときはまだ小学校の教師をしていた。戦争のおかげで世の中は好景気に沸いていたし、太郎と文通をしていた高揚感とあいまって、明るい時代だった気がする。今は何か違う。
 鉄道爆破なんて物騒の極みだ。きっと満州はもっと黒々とした雰囲気に満ちているだろう。隆子の頭には、杉原すぎはら千畝ちうねの顔が浮かぶ。
 ここ最近、夫の周りに集まってくるのは出版関係の人ばかり。口を開けば隆子のわからない作品論を戦わせている。探偵小説に関係のない夫の友人は、と考えたときに、ただ一人浮かんでくるのが彼の顔だった。
 大阪の家で会ったのはもう七年前になる。ロシア人の女性を妻に迎え、引き続きハルビンで頑張るんだと言っていた。ハルビンといえば満州の中心地、危険な目に遭っていないだろうか。
「まいど、おじゃましますわ」
 玄関のほうで柔らかい関西弁が聞こえた。横溝さんだ。博文館社内の人事異動で「新青年」を離れてから太郎に原稿を依頼することはなくなったものの、プライベートではもちろん行き来がある。
 団欒室に現れた横溝さんは、一人、知らない男性を引き連れていた。
「こちら、医学博士のはやしたかしさん」
 横溝さんに紹介された彼は、頭をぺこりと下げた。
「探偵小説を書いてはって、今日、習作を見せてもらったんですわ。なかなか面白いアイディアが使われてましてな、乱歩さんはどない思うやろて、挨拶にきたんですわ」
 また、探偵小説関係の友人が一人増えるらしい。
「主人は今、追い込み中のようで、一昨日から仕事部屋にこもりっきりなんです」
「そのようですな。…いや、実はさっき、仕事場の前まで上がらしてもろたんです。ドア越しに、『あと一時間で休憩にするから、団欒室で待っててくれ』言われましてな」
「一時間で出てきますかどうか…」
「そうやろな、また新しい原稿依頼に来たんやないかと疑ってましたからな」
 はははと笑いながらソファーに腰を下ろす。筆が遅く、時には約束をすっぽかして逐電してしまう夫にとことんまで翻弄されながら、今ではそんな夫を楽しむような素振りさえ見せる。これはこれでやはり、平井ひらい太郎江戸川えどがわ乱歩らんぽという夫の大事な友人なのだと隆子は思った。
 林という医学博士も背筋を伸ばして横溝さんの隣に腰かけた。
「ごめんください!」
 今度は精悍さを感じさせる声が玄関のほうから響いた。三宅君が廊下の入り口まで行き、「おお、こっちだこっちだ」と手招きをする。どやどやと上がってきたのは、男臭い大学生たち。皆、詰襟の学生服に角帽といういでたちだが、ところどころ擦り切れ、泥や埃の汚れがついている。「蛮カラ」といって、わざとそうやってよれよれの学生服に身を包むのが恰好いいのだそうだ。
「早稲田大学、応援部、揃いましたッ!」
 一同はずらりと横並びになると、足を開き、両手を背中に回し、斜め上を見上げるような体勢で声を張り上げた。