むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

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 寝ぼけていて、頭がふらついた。食欲を刺激する匂いがする。
「横溝君、朝飯はまだだろう? 昨日まで小田原にいた。干物とかまぼこを買ってきた」
 傍らにあった風呂敷包みを解くと、伏せられた皿があった。蓋にされた皿を乱歩が取ると、すでに焼かれたアジの開きとかまぼこ、そして握り飯が三つあった。
「いやいや、朝飯ではごまかされまへんで。どれだけの人に迷惑かけたか、わかってはります?」
「食べないのか?」
 乱歩が差し出してきた箸を、正史は乱暴に取った。
「食べますけど、申し開きくらいあってもいいもんやないですか。…うま」
 文句と同時に口に放り込んだかまぼこの味に、思わず言ってしまった。乱歩はニヤリと微笑んだ。暗さと稚気の交じり合った、唯一無二の笑顔。…あかん騙される、と思った。
「あのね乱歩さん、約束の長編は…」
「小さな島を舞台にしようかと思うんだ」
 急に作家の顔になると、乱歩は語り始めた。
 貧乏な小説家Aは自分とそっくりな大富豪が死んだことを知って、トリックを弄し、その大富豪に成り代わる。財産を手に入れ、島を購入し、そこに自分の王国を作り上げる。海の底をくりぬいてガラス張りにしたトンネルがあったり、人工的な街があったり、島全体がパノラマなのだ。
「題は『パノラマ島奇譚』としようと思うが…どうした横溝君、不味かったかね?」
 だん、と正史は箸を畳の上に置いた。
「そんな面白そうな話を聞きながら、他のことなんかできますかいな」
「そうか、なんというか…ホッとしたよ」
「ホッとしたのはこっちですわ。旅先でちゃんと考えてくれはったんですね。ほいで?」
「ほいで、とは?」
 乱歩は目をぱちくりさせている。
「どんな事件が起きますの? 首無し死体でっか? 大量殺人いきまひょか?」
「事件は…起きなきゃダメかね?」
「そらダメですやろ。大富豪と入れ替わってパノラマの島を作りました、ゆうのはただのシチュエーションや。『新青年』の読者はそっからの謎を求めてますわ」
 乱歩は唇を結んでちょっと考えた後で、
…難しいね、小説って」
 とつぶやいた。江戸川乱歩らしからぬ言葉だった。何と言い返すべきかとその顔を見ていたら、 
「飯を食ったら、一か所付き合ってくれ」
 乱歩のほうが先にそう言った。
 十数分後、朝食を終えた正史が連れてこられたのは、《神楽館》から歩いて五分もいかない商店だった。乱歩は何やら受付を済ませてくると、正史を率いて細い階段を上っていく。二階はだだっ広い板の間になっていて、玉突き台が三つあり、そのうちの一つで学生風の男たちが二人、撞球どうきゅうに興じていた。
「ビリヤードだよ。やったことあるかね?」
 細い棒を渡してきながら、乱歩は問うた。
「いや、ないです」
「俺もなかったが、熱海の旅館で教わって、四、五日やり続けていたんだ」
 人をさんざんやきもきさせておいて…という怒りはすぐに鎮まる。乱歩の撞球の腕前は大したものだった。キューというその棒を操り、白球を色玉に当てて次々と穴に落としていく。対する正史はひどいものだった。まず、玉にキューの先端が当たらない。やっと当たったと思ったら、明後日のほうへころころと申し訳程度に転がるだけだ。
「いや、玉突きが上手にならはったのはわかったんですけど、これが作品と何の関係がありますの? ただの自慢ですか?」
 乱歩が色玉をすべて落とし切ったところで、正史は訊いた。
「この台はいくらぐらいするものだろうな?」
 妙な質問が返ってくる。
「知りまへん」
「ビリヤード屋というのは家族五人が食べていけるだけの稼ぎがあるものだろうか?」
「どうしたんですか。別にビリヤード屋を始めるわけでもないでしょうに」
「ビリヤード屋を始めるんだ。正確には、隆子に任す」
「何言うてますの? 乱歩さんは今や、原稿料と印税でじゅうぶん家族を養っていけますやろ?」
 乱歩はキューを台の上に置き、天井を見上げた。
「他ならぬ横溝君との約束だ。『パノラマ島奇譚』は謎も考えて、仕上げる。だが、それが終わったら―」
 聞きたくないな、と正史は本能的に感じた。だが乱歩は待たず、その先を口にした。
「小説はもう、やめようかと思っている」 

(つづく)