猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「これ終わったら、次は『新青年』のほうに長編、よろしゅうお願いしますわ」
 ここぞとばかりに正史は言った。もともとこれが狙いなのだ。
「いやいや横溝君ね。まだこっちの仕事が終わっていないうちから次の仕事の話など」
「今や江戸川乱歩は人気作家やさかい、先に筋を考えてもらわんと―、と森下さんも言うてはりましたわ」
「森下さんはそんな関西弁はしゃべらないだろう」
 苦笑いをする乱歩を見て、正史は安心していた。逃げ出す素振りなどまったくない。
 翌日から正史は毎日、翻訳の進捗伺いを口実に乱歩の家を訪れ、「長編の筋は思いつきましたか?」とせっつきはじめた。乱歩はいつまでたってものらりくらり。しかし今日は、翻訳の締め切りの日なのである。原稿を受け取ったあとはいよいよ長編の打ち合わせだ。江戸川乱歩と横溝正史、初の二人三脚の作品。それは気合も入ろうというものだった。
 乱歩の住まいに着いた。玄関の戸は開け放たれていて、中から隆太郎りゅうたろうの調子外れな歌声が聞こえた。
「ごめんください」
 その歌声に負けじと大声を張り上げる。玄関から見える板の間には、同居している乱歩の母と妹、そして隆太郎の姿があった。奥からいそいそと、奥方の隆子りゅうこが出てきた。
「あら、横溝さん」
「乱歩さんはいらっしゃいますか。原稿の受け取りと、打ち合わせやけど」
「それが…」と、隆子は申し訳なさそうな顔になった。「うちの人、今朝、突然『旅に出る』と、出ていってしまいまして」
「えっ?」
 背筋が凍り付いた。
「失礼!」
 正史は草履を脱ぎ捨て、奥の乱歩が執筆に使っている部屋に飛び込んだ。文机ふづくえの上に揃えられた原稿用紙―『Hop-Frog』の翻訳が、昨日からまったく進んでいない状態だった。
「翻訳も終わってないやないか。乱歩さんはいったい、どこへ旅に行ったんですか?」
 振り返って訊ねるが、隆子は首を振るばかり。
「行き先なんて言わずにいつも突然出ていくんです。どれくらいで帰るかなんかも当然、決めてませんわ」
 正史は歯を食いしばる。喉の奥から、くぅー、という声が自然と漏れる。逃げられてしまった!
「本当に申し訳ないです。ああいう人なので」
「お、お…」怒鳴り散らしたくなるところを抑え、正史は無理やり笑顔を作った。「奥さんが謝ることやないですわ。きっと旅先で、長編のヒントを見つけてきはるんですやろ」
「そうでしょうか」
「はっは、僕は知ってますねん。関西にまだいらはる頃、神戸に遊びに来はってな。一緒に古道具屋を見にいったんですわ。金持ち趣味の肘掛椅子がありまして、乱歩さん、店主に『これ、中に人が隠れられるでしょうか』言うて。ケッタイな質問するなあと思てましたらほら、あの大傑作『人間椅子』を書きましたやろ。あんなふうに、今度うちで書く長編のネタを探すつもりですねん。そうや、そうに決まってる」
 正史は早口でまくし立てた。隆子ではなく、自分自身を納得させるかのようだった。ただただ申し訳なさそうな隆子に「ほな」と挨拶をすると、逃げるように表に飛び出した。そして、商店が並ぶ神楽坂の大通りまで一気に駆け、道のど真ん中で真夏の空を仰いだ。
「あああっ! 逃げよった、ほんまに逃げよったで!」
 行き交う人が何事かと振り返る。
「どないすんねん、『Hop-Frog』。いやそれより長編や。今週中に草稿を書かせるゆうて、森下さんに約束してもうたやないか!」
 正史はお構いなしに蓬髪ほうはつに両手を入れ、があああっと掻きむしった。『D坂の殺人事件』で明智あけち小五郎こごろうにこんな癖があると書かれていたことを思い出し、余計に腹が立った。どすどすと地団太を踏むと、土埃が舞った。
「帰ってきたら、首枷くびかせして書かせたろかほんまに。江戸川乱歩、許さへんで!」
 だが結局、七月中に乱歩が旅先から帰ってくることはなかった。「探偵趣味」のほうには「乱歩が旅に出たので予定していたものが載せられなくなった」と、かなり控えめに正史は恨み節を残した。「新青年」の森下雨村は怒るどころか正史を慰めてくれ、それが余計にみじめな気持ちを増長させた。
 八月になり、十日経っても乱歩は帰ってこなかった。このころになると正史の怒りは次第に心配に変わっていった。探偵小説界では人気作家でも、風体はただの怪しい三十男である。何日も無精な旅を続けて、髪はもうかなり薄くなっているから心配はないが、髭は伸び放題だろう。旅先で不逞の輩として捕まっているのではないか…と、隆子に言ってみたが、あははと笑うばかり。
「警察に捕まった人の心理がよくわかって、より真実味を帯びた犯罪者が書けるってもんじゃないですか」
 本気か冗談かわからないが、さすがあの江戸川乱歩の妻、と正史は呆れてしまった。
 あっという間に、八月も半ばを過ぎた。連日の暑さで寝苦しく、ついつい夜更かしをしてしまった正史はその日、ぐうぐうと朝寝をしていた。
…くん、横溝くん、横溝正史せいしくん。ヨコセイくん…いや、本名はマサシというのだったかな」
 ぶつぶつとした声で目を覚ます。
 枕もとに、江戸川乱歩がしゃがんでいた。正史は跳ね起きた。
「乱歩さん!」