猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「この、この!」
 放り出してあったほうきを手に取って、眠っている太郎の顔をばさばさと掃いてやった。太郎は「わっ!」と飛び起きた。
「な、何をするのだ」
「この、この! 早く、職を探してください!」
 太郎は慌てて、外へ逃げていった。
 その後どうやら、太郎はくだんの短編小説をどこかの出版社へ送ったようだった。返事が来ないのでこうしてやきもきしているのだろう。
「来ないものはしょうがないじゃないですか。少しは隆太郎りゅうたろうの面倒でも見てやってくださいよ」
 やはり隆子が感じた面白さは素人の感覚だったのだろう。出版社の人にとってはあの小説は箸にも棒にもかからない作品だったのかもしれない。自分のことのように、と言えばおこがましいけれど、やはり隆子も寂しかった。
 一方で、小説のことで気もそぞろなまま一切働こうとしない夫への苛立ちは膨れ上がっている。「そろそろまともな職に就く気はないか、太郎に打診してくれないかね」と、毎日のように義父に囁かれ、肩身の狭い思いをしている。
 妻であり、嫁であり、読者である隆子は、辛さも三倍であった。
 だあ、だあ、と、隆子の背中で隆太郎は無邪気なものだった。
「やっぱり催促の手紙を出してみようかなあ」
 夫はそう言って、家の中へ去っていった。
 そんなことがあったのも忘れていた数日後、再び庭で洗濯をしていると、
「りゅ、りゅ、隆子!」
 どたどたと這うようにしながら、濡れ縁に現れた太郎は、一枚の便箋を握っていた。
「どうしたんです?」
 いつもぼんやりしている父親が、尻に火が付いたような慌てっぷりを見せているからだろう、背中の隆太郎がぎゃんぎゃんと泣き出す。
「何なんですか、隆太郎がびっくりしているじゃないですか」
「馬場先生から送り返してもらった原稿を、別の先生に送ったんだ。その返事がきた! 隆太郎なんぞ俺が見ているから、早くこの手紙を読んでみろ」
 隆子は手を拭いて、便箋を受け取る。背中のおんぶ紐の中から、太郎は息子をひょいと抜き取り、よしよしとあやしはじめる。
 それは、森下雨村うそんという人物からの手紙だった。太郎の小説を、海外の小説に負けないくらいだと小酒井こさかいさんも大変褒めていたと、興奮した筆致で書かれていた。小酒井さんというのが誰なのか隆子にはてんでわからなかったけれど、「新青年」の四月春季増大号に掲載したいというくだりでは、やはりびっくりした。
「『新青年』って、あなたがよく読んでいる雑誌じゃないですか」
「そうとも。森下さんはその雑誌の編集長だ。あー泣くな泣くな。ほら、面白いお話を聞かせてやるから」
「雑誌に載るって、それじゃああなた、作家になったんですか」
「まだなったわけじゃないさ。次から次へと書けなければ作家としては成り立たない」
 とはいえ嬉しそうに隆子の顔を見て笑い、寺のカラスのように泣き続ける隆太郎を右へ左へ揺らし続けている。
「むかしむかし、フランスにバスチーユ牢獄というとても堅固な牢獄がありました…」
「あら、早速、新しい小説の筋ですか?」
「いや違う、これは黒岩涙香るいこう翻案の『鉄仮面』だ」
 わかるわけもない話を隆太郎に聞かせながら、わが夫はダンスでも踊りだしそうな足取りだった。

 件の小説は、森下の手紙にあったとおり、「新青年」の大正十二(一九二三)年四月春季増大号に掲載されることとなる。
『二銭銅貨』―探偵小説家、江戸川乱歩の誕生であった。

(つづく)