猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 馬場孤蝶氏は当代きっての文芸家ということもあり、さすがに海外の探偵小説に詳しかった。二つ隣の関取男の、奇妙な咳払いがまったく気にならずに集中できた。隣のおしゃべり男は時折「ほう」「なるほど」と相槌を打ち、そうかと思うと「それはどうやろな」と首を傾げ、本当の探偵小説の愛好家なのだと思わせた。
「さて、時間が近づいてきましたが、最後に最近読んだ中でもっとも珍しい作品についてご紹介しましょう」
 もう終わりかと落胆する気持ちと、珍しい作品とはどんなものかという期待が、太郎の中で入り混じる。
「英国の作家オースティン・フリーマンの『ザ・シンギング・ボーン』です。邦訳すれば『歌う白骨』ということになりましょうか」
 作者も作品名も、知らなかった。ちらりと左隣の学生に視線を投げると、やはり太郎のほうを見て、首をひねっている。
「探偵役を任されているのはソーンダイク博士という人物でして、医学博士ながら化学と物理学にも通じているという設定なのですな。小説のほうはと言えば、人が殺害されて、その犯人にこのソーンダイク博士が理知的な見地から迫っていくという筋なのですが、注目すべきはその構成であります」
 もったいつけるように間をおき、馬場は演台に身を乗り出した。
「前半部が犯罪者の視点で描かれるのです。人を殺害し、それを自分が殺したとわからぬように細工をする様が事細かに描かれる。そして後半部です。現れたソーンダイク博士が死体を丹念に検分し、犯人が思いもよらなかった瑕疵かしを発見していく。この過程がぞわぞわするのです」
 太郎は思わずあっ、と叫びそうになった。
 犯人が殺人と偽装工作をするところをつぶさ…それを探偵が暴くところを鮮やかに…読者にしてみれば、探偵の活躍を目の当たりにするとともに、犯人側の立場に立って悪事を暴かれる恐怖を味わうことができるというわけだ。 なんとすばらしい手法なのだ。
「本邦でも、フリーマンと比肩するような探偵小説が書かれることを、心待ちにしてやまないものであります」
 馬場の主張が、自分に向けられているように太郎には感じられた。俺にそんな作品が…いや、待てよ。少し前に書いたあの習作を、今聞いたフリーマンの作品のようにできないものだろうか。もしそうするならば、犯人である主人公の性格を作りこまねばならぬ。自分がいちばん頭がよく、人に犯行を暴かれることなどをつゆほども想定していない、過剰なほどの自信の持ち主。ならばそれに見合った犯罪を考えなければならない。…ダメだ。あのアイディアでは弱すぎる。状況も、動機も、犯罪計画もすべて、考え直さなければ…。 
「すんまへん、すんまへん。おーい」
 肩を揺すぶられて太郎は我に返った。いつのまにか馬場は演壇からいなくなり、周囲の客も半分くらいは帰ったあとだ。
「どないしたんですか。馬場先生が退場されるときに拍手もせずに」
 おしゃべり学生が心配そうに顔をのぞいてくる。関取男は向こう側から通路に出たと見え、もう姿はなかった。
「いや…すごい話だったね。犯行の手口を先に書いてそれを名探偵がつまびらかにしていく様子を描くなんて」
「『ザ・シンギング・ボーン』ですか? そやなあ。僕にはようわからんかったかなあ」
「私は大いに感銘を受けた。よし決めた。私は書く! これまで日本の作家が書いてこなかったような探偵小説を」
 立ち上がった太郎を、学生は見上げている。
「こりゃすごい影響されようや。探偵小説を書くんやったらまた、お会いできるかもしれまへんな」
「ああ、待っていたまえ」
「楽しみに待たせてもらいます。僕の名前は…」
「急ぐので失礼!」
 彼の自己紹介も待たず、入り口に向けて駆け出す太郎。一刻も早く、原稿用紙に向かいたかった。

(つづく)