第一話 カツ丼とかけそば【4】
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前回のあらすじ
太郎には自分だけの「夢」があった。でも、どうしたらそれを実現できるのだろうか。いまのような当てのない生活のままで……。
四、
探偵小説――あまりにも予想外な答えに、千畝は返す言葉を見つけられなかった。
そもそも、小説というものにあまり触れてこない人生だった。千畝には文学がわからない。芸術の中でも特に、余裕のある人たちの暇つぶしとしてしか捉えていない。だが、探偵小説――その言葉に懐かしい響きを感じてしまうのはなぜなのだろう。
「まあ、夢物語だ。忘れてくれたまえ」
男は恥ずかしそうに、残りのカツ丼に取り掛かる。千畝もまたかけそばを口に運ぶが、もう味などわからなかった。
留学すればいいじゃないかという男の問いかけに、できるものならやってみたいですよ、と千畝は答えた。
本心だろうか? 本心なのだろう。本当はやはり好きな英語を、本当の意味で生かせる仕事に就きたい。外国に出て、英語を話し、日本のために何かを成す仕事だ。
留学をしてみたい。一刻も早くこの目で、外国を見てみたい。
それはひょっとしたら、あの日、無謀な満州行きを計画した三人の中学生たちの話を聞いたときからの気持ちなのかもしれなかった。
「……あっ」
千畝はあることを思い出し、箸を持つ手を止めた。
探偵小説――一度だけ、千畝もそのたぐいの出版物を手に取ったことがあった。それもまた、北里博士に会ったあの日のことではなかったか。
千畝の心はまた、九年前に飛んでいく。
*
野田邸の裏に放り投げられた雑誌に書かれたタイトルは英語だった。
『The Strand Magazine』――なんと読むのか千畝にはまったくわからなかったが、ぱらぱらとめくってみると、悪者を追い詰める紳士の挿絵があった。勉強に関係のある難しい読み物ではないようだった。
「ふむ、探偵小説の類かもしれんな」
隣で北里博士がそう言った。
「探偵小説?」
「娯楽さ。そしてこれは」
博士は赤黒い物が入ったガラス瓶を眺めている。
「梅干しのようだ。野田さんもこんなものを敷地内に捨てられたらたまったもんじゃない」
「届けてきましょうか」千畝は言った。「どうせ僕は、戻ってもすることがありませんから」
北里博士は笑みを浮かべ、千畝に瓶を手渡した。
千畝は表門から通りへ出た。道がわからなくなったらどうしようかと少し不安だったが、杞憂だった。《太閤荘》と、看板だけが物々しいその建物の玄関にはすぐにたどり着いた。入り口の戸は開かれたままで、土間はひっそりとしていた。
「ごめんください」
恐る恐る入っていくが、帳場には誰もいない。
「ごめんください」
大きな声を出すと、はいはい、と面倒くさそうに頭の禿げあがった六十がらみの男性が出てきた。千畝を見るなり、なんだ子どもか、と見下したような態度になる。
「すみません、裏の屋敷でこれを拾ったんです」
「ああん?」
「この旅館の二階の部屋から放り捨てられたんです。建物の、こっちから数えて三つ目の部屋です」
「ああ、ガキども三人か」
「ガキども?」
「宿代はもらっているからいいものの、三人のうち二人は日がな一日こもりっきりで、何やってるんだか。変なことを起こさなきゃいいが……お前さんにそんなことを言ってもしょうがないか。ここでちょっと待ってろ」
男は廊下の奥へ消える。とっとっと、と階段を上っていく音がした。しばらくして、今度は明らかに目方の小さい足音が階段を下りてきて、一人の坊主頭の少年が、千畝の前に現れた。年は十五、六といったところだろうか。胸板が薄く、病弱そうな青白い顔をしていて、さっき窓の向こうに見えた彼とは似ても似つかない。
「あっ」
彼は、千畝の持っている雑誌を指さして声を上げた。
「これ、さっき落ちてきたんです」
「ありがとう!」
千畝が差し出した雑誌を、彼はさっと取り上げた。ぱらぱらと雑誌をめくるその顔に、血の気が差してくる。