「そんなことだろうと思いましたよ。これがありますから安心してください」
健三は赤黒い何かが入ったガラス瓶を、太郎のノートのすぐ脇に置いた。
「なんだい、これは」
「祖母ちゃんの梅干しです。船に乗ることがあったら梅干しを食えばいいって祖母ちゃんがむかし、教えてくれたんです」
健三は、くるくるとガラス瓶の蓋を開ける。すっぱい匂いが漂った。自分の分を一つとると健三は、「どうぞ」と太郎に勧めてきた。
人差し指と親指でひんやりとしたそれを一粒つまみ上げ、健三と顔を見合わせて、同時に口に放り込んだ。
「すっぱい。ぐうー」
目をつむってしまう。健三の笑い声が聞こえた。
「祖母ちゃんのは特別です。これだけすっぱかったら、たとえ船酔いしていたとしても」
「どうでもよくなるな。ぐうー」
果たして根本的な解決と言えるかどうかわからないが、心配が薄れたのは事実だ。
健三が瓶の蓋を閉めたそのとき――、どすどすと廊下のほうから軍隊がやってきたと思えるような足音が響いてきた。がちゃりと乱暴にドアが開かれ、
「ちくしょう!」
真吾が怒鳴りながら飛び込んできた。
「ちくしょう、ちくしょう!」
「お前はその入り方しかできないのか。ドアを閉めろよ」
健三の注意も聞かず狭い部屋の中を歩き回る真吾。仕方がないので、太郎が立ち上がってドアを閉めた。
「初子のやつ、裏切りやがった!」
真吾はそう叫ぶと、擦り切れそうな畳の上に両ひざを落とし、天井を見上げてうおおと吠えた。
今朝、真吾は旅館を出てからすぐに、勝間屋へ出向いたのだそうだ。木陰で店先を見守っていると、やがてお客を見送って初子が出てきた。声をかけると初子は真吾に気づき、近づいてきた。
近いうちに満州行きを決行するから、荷物をまとめておけよ――真吾が告げると、初子は目をまん丸にし、「本気なの?」と言った。
「『このあいだ、約束したじゃないか』俺はそう言った。そうしたらあいつ、なんて言ったと思う?――『だってあれは気分が盛り上がってしまったからはいと言っただけよ。まさか本当に満州に行けるなんて思わないじゃない。考えなさいよ、何歳なのよ?』」
まるで五歳の子どもに言い含めるように、初子は真吾の肩をぽんと叩いたのだという。退学届まで出したんだと言うと、今度は一転、初子は腹を抱えて笑い出したそうだ。
「あの女、あの女めっ!」
背中を丸め、こぶしで畳を何度も殴りつける真吾。だがやがて顔を上げ、
「いいんだ。俺は満州で、初子よりもっといい女を見つけてやるんだ。なあ、そうだろう、太郎さん、健三」
太郎は健三と顔を見合わせた。言いたいことはたくさんあるが、一言で言えば「呆れた」だ。
「それで真吾。名古屋港の石炭船の出発の日取りはわかったのか?」
冷静に問う健三。真吾は「あっ?」とその顔を睨みつけた。
「だってお前、それを確認しに外に行ったんだろ。それがただ振られて帰ってきただけなんて」
「うるせえ!」
どん、と真吾は健三を突き飛ばす。
「だいたいなんだ、二人は。食糧の調達も、船の時間も全部俺に任せっきりで」
「お前が外に出るなと言ったんだろ。とにかく梅干しでも食って気分を落ち着かせろ」
と、健三が差し出すガラス瓶を、真吾はひったくった。
「俺は、梅干しは嫌えだ!」
「そ、そうか」
「太郎さんもなんです? 小説を書いてたんですか? こんな小説が何の役に立つっていうんです?」
真吾だって乗り気だったはずなのに……虫の居所の悪くなったこの男ほどたちの悪いものはない。静観しておこうと思ったら、事態はさらに悪いほうに進んだ。
「荷物の量は限られているんだ。イギリスの雑誌だかなんだか知らないけど、こんな余計なものを持つくらいなら、缶詰の一つでも多く持っていったほうがいいに決まってら!」
『The Strand Magazine』をむんずとつかみ上げる。
「おい真吾、待ってくれ、それは……」
太郎が止めるのも聞かず、真吾は窓のほうに歩み寄る。がらりと窓を開け、
「いらん!」
雑誌と梅干しの瓶を、外に放り投げてしまったのだった。
(つづく)