「なんだそれは」
「いや、おすそ分けだよ」
覗き込んできた同室の乙崎をなんとかごまかし通し、太郎はその日のうちに三つの偽印を作り上げた。
翌日の夕方、三人は退学届を学校の事務室に提出した。そうなるともう、寄宿舎にはいられない。乙崎に見とがめられないうちに身の回りのものをまとめ、真吾が見つけてきた《太閤荘》へ荷物を持ってやってきた。真吾は太郎より一つ下の十五歳だが、大人の服を着れば二十歳すぎに見えぬこともない。
「この二人は私の甥でして。今度名古屋で一緒に商売をはじめることになったのです」
頭の禿げあがった六十がらみの番頭は真吾のことを怪訝そうに眺め、宿帳に書いた「山田真吾」という偽名の拙い文字を見てなお疑わしそうだった。しかしかき集めた金を一週間分の前払いとして出すと表情を和らげ、
「どうぞこちらへ」
と三人を二階の十三号室に案内した。
十三号室、というのが太郎の気分を高揚させる。十三は欧米では不吉な数……今から新天地で怪奇趣味の小説で身を立てようという身にとってはむしろ縁起のいい数字に思える。
初めての三人の夜は、健三がどこかから手に入れてきた中国の地図を囲み、どうやって満州に行くか、満州のどこに住んで、まず何をやるかなど、一晩中話し合った。太郎の頭の中には、新天地で読んでもらうことになる小説の筋がいくつもいくつも浮かんでくるのだった。
一夜明け、三人は少しだけ現実に引き戻された。
満州に行ったあとのことはいいのだが、そもそもどうやって大陸に渡るか? 船に忍び込むのはいいが、どこの港から忍び込む? 神戸か、敦賀か。いや、そこまで行く汽車賃がない。名古屋港からも大陸に行く船は出ているのではないか。客船はなくとも、石炭を運ぶための船が行き来している気がするぞ。
ということで、名古屋港からどんな船がいつ、どこに向けて出ているのかを調べに、真吾が出ていった。太郎と健三も一緒に行きたいところだったが、外に出る人数が多いと見つかる可能性も高くなると、真吾一人だけが行動することになった。一日港で調べたが、大陸行きの船がいつ出るのかという情報は得られないまま、食糧となるせんべいを数袋調達して真吾は戻ってきた。
そして今日。真吾は朝から再び出かけている。
健三は体がなまってはいけないと倒立をしてみたり腕立て伏せをしてみたり、鴨居で懸垂をしたりと運動をはじめ、太郎はこの間まで授業で使っていた数学のノートに小説を書きはじめた。脇には、英国製の雑誌『The Strand Magazine』。太郎の怪奇小説・探偵小説趣味を知っている尋常小学校の頃の級友が、外国勤めの叔父からもらったものを、太郎にくれたのだった。正直なところ、太郎の英語力では何が書いてあるかさっぱりわからない。だがその挿絵を見ているだけでわくわくするし、今こうして横に開いて小説を書くと、すごく面白いものが書けそうな気がするのだった。……まだ、四行しか書けていないが。
「そういや太郎さん」
満州で自分の作品が読まれている未来の光景に浸っていると、いつの間にか体操を終わらせていた健三が話しかけてきた。
「体が弱い、体が弱いと、事あるごとに言ってますが、船酔いは大丈夫ですか?」
「船酔い?」
「大陸に渡るにはかなり長い間、船に揺られていなきゃいけません。しかも船賃を出すわけじゃないんだからずっと隠れていないと。デッキに出て風に当たるってこともできないんですぜ」
ああ、と太郎は額に手をやる。
「まいったな、考えていなかったよ。そして、考えただけで気持ちが悪くなりそうだ」