第一話 カツ丼とかけそば【3】
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前回のあらすじ
怪しい先輩と話をするうちに、千畝はふと思い出した。それは子供の頃、偶然、世界的に有名な医学博士に出会ったことだった。
三、
「医者になると言えば学費は面倒を見てもらえたんだろう。苦学をしてまで、英語のほうが魅力的だったというのかね」
カツ丼を食べるのを休み、太郎は相席の学生に訊いた。
「ええ。英語が好きですので」
好きなだけでは親を振り切り、学費を自分で稼いでまで早稲田に来ようとは思わないだろう。
「本当は、もっと実用的に英語を使える仕事に就きたいんじゃないのか」
「はい?」かけそばを食べる手が止まる。
「留学すればいいじゃないか」
「できるものならしたいですよ。でも……僕に、行けるわけがありません」
しょげ返ったその顔を見て、太郎は後悔した。もともと社交的ではないくせに、人のことを詮索して暗い気持ちにさせてしまった。
「ああ……うん。すまない」
気まずい沈黙が続いた後で、
「先輩は、どうなんですか」
彼は訊ねてきた。
「これからずっと、古本屋と夜鳴きでやっていくおつもりですか」
「ああ、いや」これまた手厳しい話だ。だが自分から詮索してしまった以上、こちらのことも話す義務はあるだろう。
「本当は、書きたいものがあるんだ」
「書きたい、というと……新聞記者ですか」
「いや、探偵小説だよ」
「探偵小説――?」
「陰気な洋館の中に身元不明の死体が現れて、その謎を探偵が解決する。そういう欧米の小説が好きでたまらんのだ。この魅力をもっともっと日本に伝えたく、自分でも書きたいのだが――筆力が追い付かない」
学生は、それこそまるで聞いたことのない外国語を聞いたかのような顔をしていた。想定内のことだ。探偵小説はこの国では、下賤な読み物。だが太郎はそれが愛しくてたまらない。
太郎の気持ちはまた、九年前の名古屋に飛んでいく。
*
大須の旅館、《太閤荘》の十三号室は、六畳一間のジメジメした部屋だった。本来は日当たりのいい部屋だったように思えるが、すぐ隣に立派な洋館が立っていてすっかり陽光を遮られている。
太閤などとたいそうな名前がついているが、見世物小屋に出演する芸人や、肉体労働者など雑多な人間が泊まる安宿である。もちろん食事など出ない。だが太郎は満足だった。むしろ、大陸への密航という不穏な計画を練るには、こういう日の当たらない旅館のほうがいい。元来太郎は、押し入れの中とか、物置の中とか、狭くて暗いところが好きなのだ。九歳の頃から夢中になって読んでいる翻案の怪奇小説によく出てきそうな宿だ。
古びたこの宿屋を見つけてきたのは、芦屋真吾だった。
満州に行くことに決まったあの日の夜、彼は「太郎さん、これを置いといてくれ」と部屋に大きな布袋を持ってきた。そのとき太郎は、近くの建設現場で拾ってきた木材を使い、小刀で偽の印を作っているところだった。手先の器用な太郎が、「平井」だけではなく「芦屋」と「匹田」も作ることになったのだった。
「俺の部屋に置いとくと、同室のやつに怪しまれるから」
こっそり袋の紐を解いてみると、干菓子や瓶詰、手ぬぐいにくるまれた干物……食料が入っていた。