赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。

赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。

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「五郎君、そう他の職業を見下すもんじゃない。医者は不遜になってしまったらおしまいだ」
「これは失礼」
 北里博士にたしなめられ、五郎博士は恐縮した。千畝は少しばかり北里博士が好きになった。北里博士は気にした様子もなく千太郎のほうに目を向ける。「何か生徒のことで気になることがあるのかね」
「いえ。博士にお話しするようなことではございませんので」
「話してみなさい。ここで吐き出してしまったほうが、気も晴れて飯も美味くなるかもしらん」
「そうですか…それなら」
 千太郎は北里博士のほうに向きなおる。
「先日、うちの学校の寄宿舎に入っておる三人の生徒がそろって退学届を出し、寄宿舎を出て行ったのです」
「そろって退学届を」
「はい。退学届には当然、当該生徒の親の署名捺印が必要で、三枚ともにきちんと印がされていたのですが、怪しく思った事務員は生徒指導部に相談をしてきました。そこで私が当該生徒の家に足を運んで確認を取ったのですが…、いずれの親御さんも、そんな署名や捺印をした覚えはないと驚いておられた次第なのです。印は偽造だったのです」
 千太郎は取り出したハンカチで額を拭いた。印を偽造して退学届を出す…それがどれだけ異常なことか、千畝にもわかった。
「当の生徒たちは何と言っておるのかね」
 北里博士の質問に、千太郎は首を振った。
「三人とも、消えました」
「消えた?」
「行方をくらませたと言ってもいいでしょう。寄宿舎の者たちに聞き取りをしたところ、三人のうちいちばんの悪ガキが、『俺は満州に行って牛を飼うんだ』と吹聴していたと」
「満州で、牛を…?」
「はい。残りの二人のうち一人は似たような悪ガキで同調したものと思われます。あと一人は大人しくて成績も良好な生徒だがこの二人と仲良くしておったそうで。おそらく巻き込まれてしまったのでしょう」
「三人は本当に満州に行ったのか?」
 一太郎が信じられないといった口ぶりで弟に訊ねる。
「馬鹿なことを言うな」五郎博士が鼻で笑う。「中学生が三人で満州に行けるものか。夢見がちな落ちこぼれの戯言たわごとだ」
「戯言にしても面白い。いまだに見つかっていないということはどこかに潜伏して本気で満州に渡る計画を立てているということだろう。頼もしいじゃないか」
 五郎博士を否定するように、北里博士は愉快そうに肩を揺らす。
「ご冗談を申されているときではないのです、博士」
 千太郎は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「もし万が一、三人が大陸行きの船にでも乗り込むなどという事態になったら、その責任は学校にありましょう。当然、生徒指導部たる私にも…そう思うと、胸がいっぱいでいっぱいでとても食欲など」
「そうかそうか。たしかにそうだな。これは悪かった、千太郎君」
 謝りながらも、北里博士はやはりどこか、楽しそうだった。

 三十分後、昼餐は終わり、大人たちは食後酒を楽しみはじめた。千畝は紅茶をもらったが、話にはついていけず、大人たちが酒にほぐれて陽気になるにつれ、疎外感を覚えるようになってきた。
 それで、便所を言い訳にして玄関から外に出て、敷地の中をぶらつくことにした。庭のほうに行っては、広間から丸見えである。その足は建物の裏手のほうへと向いていく。
 日当たりこそ悪かったが、雑草はきれいに刈り取られているし、苔むした庭石はだいぶ渋い趣を湛えている。ヤツデの茂みの向こうには磨かれたようにきれいな竹垣があり、その向こうには、古い木造二階建ての家屋があった。
 いや、家屋にしては大きい。規則正しく連なる窓から見て、同じ広さの部屋がいくつか並んでいるようだ。
 寄宿舎だろうか―と、千畝は思った。愛知五中の寄宿舎はなじみがないが、以前、どこかの学校の寄宿舎を見たとき、こんな感じだったようなのを思い出した。だが、このあたりに中学校があっただろうか?
 寄宿舎という発想は、千畝にさっきの話を思い出させた。三人の中学生が偽の印を作ってまで退学届を提出し、満州へ行く計画を立てているという、信じられない話。
 ロシアとの戦争に勝利して以来、満州という地が若者のあこがれの地となっているのは千畝もなんとなく知っていた。満州はそのうち日本の領土だ、あそこを足掛かりにしてしんをまるごと分捕ってやろうぜ―などと道端で叫んでいる酔っ払いを見たこともある。
 暴力的なことだと、千畝は首をすくめたくなる。千畝は、喧嘩は好まない。対外的に強い日本なんてどうでもいい。なぜ国同士が戦争をしなければならないのか、まったくわからない。
 これから大人になっていくにつれ、どんな職に自分が就くのか皆目見当もつかないが、お互いがお互いをだましあい、殺しあい、侵しあう世界に出て行くなんてまっぴらだ。それなら医者のほうがいくぶんマシなのかもしれない。
「ここにいたか」
 聞き覚えのある声がして、そちらのほうを向く。建物の陰に佇むその人物を見て、千畝は背筋を伸ばす。
「そう固くならなくともよい」
 にこやかに笑いながら近づいてくるのは北里博士だった。
「私にも覚えがあるよ。子供時分、酒を飲んで大人同士がしゃべっているときほどつまらぬ時間はなかった」
 千畝は何と答えていいかわからず、ひょこりと頭を下げただけだった。そんな千畝の顔をしばらく眺めていたかと思うと、
「医者になりたいというのは、嘘なんだろう?」
 北里博士は言った。
「え、あ…いえ」
「隠さんでもいいんだ。君のお父さんは君を医者にしたがっている。だが君はそうではない。…私もね、各地で講演をしたり食事に招かれているから、そういう親子をよく見るんだよ」
「はあ、そうでしたか」
 炯眼けいがんとはこういうことを言うのだろうな、と千畝は感服する。細菌だけでなく、人を見る目も優れた人なのだ。
「本当は何になりたいんだ」
「まだ、決まっていません」
「ふむ。だが成績が優秀というのはいいことだ。いいじゃないか。医者になるのだという体で中学に進み、勉学に励みながら本当に自分の進む道を探せばいい。だがこれだけは言っておこう」
 北里博士は千畝の顔を覗き込んだ。
「英語だけはきちんと勉強しておきなさい」
「なぜですか」
「これからは国際化の時代だ。日本の外に出たいと思ったとき、英語ができないのでは他人に後れを取る」
 日本の外に―海外留学を経て成功した大人の考え方だ。だが千畝の頭の中には、侵略しあう国家同士のイメージがこびりついている。海外なんて
「先生は、怖くはなかったんですか?」
 千畝は、疑問を口にした。
「怖い?」
「ドイツなんてまったく知らない地だったのでしょう? 言葉だって通じないし、食事だって口に合うかわからない。それに、いつ日本と戦争を始めるかわからないし」
 はっははと北里博士は笑う。
「そんなものを怖がってはいられなかったさ。確かにドイツ人と言葉が通じるかどうかはわからんかった。しかし少なくともドイツ人は、見える」
「見える?」
「私はね、細菌という見えない恐ろしい相手と戦うために留学しなければならんと思ったのだ。顕微鏡を覗かずともそこにいるとわかっている相手など恐るるにたらん。…まあ、若かったということももちろんあるがな」
 小さなレンズの眼鏡をずりあげ、北里博士は裏の建物のほうを眺める。
「さっきの中学生たちの話だがな、満州に行って牛を飼うという計画、私は正直なところ、そこまで無謀なこととも思えんのだよ。牛は目に見えるし、彼らは若い。私がドイツに行った頃よりずっとな」
 若い。それ自体に価値があるとこの博士は言うのだろうか。でもそれは、未熟で何も知らないということではないだろうか。
 英語を勉強し、日本の外に出る。そんな自分が想像できるだろうかと、北里博士と同じ方向を見る。
「ん?」
 二階の窓の一つに、男が現れた。年齢は十五、六歳に見える。男というより少年だ。
 彼は窓を開き、「いらん!」と興奮した様子で叫びながら、何か二つ、放り投げた。
「危ないぞ!」
 北里博士の声に反応し、千畝はサッと後ろに飛びのいた。博士と千畝のあいだにその二つは落ちてきた。一つは、英語の題が書かれた本。そしてもう一つは―、何かぐちゃっとした赤黒い物で満たされた、蓋つきのガラス瓶だった。

(つづく)