猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 応接室に入る。和服に日本髪の落ち着いた雰囲気の女性と、ワイシャツに半ズボンをサスペンダーで吊り上げた、聡明そうな男の子がソファーに座っていた。太郎の姿を認めると、二人はそろって立ち上がった。
「杉原幸子ゆきこです。この子は次男の千暁ちあきです」
「杉原千暁です」
 少年はぺこりと頭を下げた。
「江戸川乱歩…いや、平井太郎です。どうぞ、座ってください」
 戸惑いながら太郎もまた、二人の前に腰かける。そのときふと千暁の前に『少年探偵団』が一冊置いてあるのが目に留まった。
「昨年は主人がお世話になりまして」
「ああ。仕事はどうです、先方に連絡は取りましたか」
 横浜での再会のとき、太郎は別れ際に千畝にいくつかの出版社の知り合いの名を教えておいた。江戸川乱歩からの紹介だと言えばすぐに翻訳の斡旋をしてもらえるだろうと言ったのだが、その後、出版社から確認の電話がかかってきたことは一度もないので気に掛けていたのだった。
「それが、やっぱり翻訳の仕事なんて自分にはできないというんですね。それでまた仕事を転々としているんです」
「家族がいるのにけしからんな」
「平井さんのことを引き合いに出されます。『あの人は作家になるまでに二十何回も職を変えたんだ。三、四回の転職がなんだ』と」
 太郎は苦笑したが、幸子は少しも笑わなかった。まるでお前のせいだと言われているようで、自分の家なのに肩身が狭くなる。
「今はPXのほうに勤めさせていただいています」
 進駐軍やその家族のための売店のことだと太郎も知っていた。
「そりゃいい。センポは英語が得意だからな」
「ロシア語のほうが得意だよ」千暁がすかさず言った。「あと、フランス語とドイツ語と中国語も。でもルーマニア語は、僕と弘にいのほうが上手くしゃべれる」
「千暁」
 幸子がたしなめる。太郎は笑った。
「さすがセンポの息子だ。千暁くん、お父さんは日本語は上手いかね?」
「いちばん下手くそ。横浜の闇市でも、うまくしゃべれないからいつも悪いものを高く買わされるって言ってた」
「そうか。ソ連から鉄道をずいぶん安く買い叩いたことがあるはずだがな」
「ロシア語でやりとりしたんでしょ? それならパパには簡単だよ」
「江戸川乱歩さん」
 二人の会話を断ち切るように、幸子は改まった口調になった。
「不躾なお願いなのですが、本日はこの本にサインをいただきたく参りました」
『少年探偵団』をおずおずと、太郎の前に差し出した。
「この子の通う学校で大変流行っているそうなのですが、『パパの知り合いだ』と言ったら嘘つき呼ばわりされたんだそうです」
 恥ずかしそうに彼女は目を伏せた。
「その…長男の弘樹ひろきとこの子は外国生活が長く、ただでさえクラスに馴染めていないのです。喧嘩になるとすぐルーマニア語をしゃべるので鼻につくのでしょう」
「喧嘩のときはドイツ語だよ。強そうに聞こえるから」
 当の千暁はあっけらかんとしたものである。
「この子も悪いのでしょうが、我が子が嘘つき呼ばわりされるのはどうしても許せなかったのです。本当に申し訳ないのですが」
「謝ることはありません」
 太郎はペン立てからペンを取り出し、千暁の名とサインを書いた。「ありがとうございます」と恐縮する幸子の隣で、千暁は不思議そうな顔をしている。
「これで外国に行けるの?」
 一瞬何を言っているのかわからなかったが、バロンが持ってきたビザのことをすぐに思い出した。
「ははは。君のお父さんのサインと違って、人の命を救うことはできんよ」
 ふーん、と千暁はサインをまじまじと見ていたが、
「さっきママは喧嘩していると言ったけど、それ、この本が理由なんだよ」
「なんだって?」
「タケシもケンゾウも、この本大好きなんだけど、三冊で終わりだって。でも僕は二十面相は死んでなんかいないと思うんだ。戦争中はじっとしてたけど、また悪さを始めると思うんだよ。そしたらまた、明智小五郎の出番だよ。そのときは一緒に小林君に協力しようって言ったら、『嘘つき』ってさ」
「そういうことだったの?」
 幸子が目を丸くしていた。嘘つき呼ばわりされた経緯には、息子と母のあいだで認識の違いがあるようだった。
「二十面相は死なないよ。そうじゃなきゃ、小林君が活躍できないもん」
 突如、太郎は目の前に稲光が落ちたような感覚に陥った。
 かつて名古屋の中学で、一人で本を読んでいたころ、海外の探偵小説の名探偵の活躍に胸を高鳴らせた。怪奇小説も好きだったが、探偵譚はもっと好きだった。
 これからの探偵小説の隆盛を喜ぼうとするなら、若い探偵小説愛好家を育てねばならない。若手作家が論理を主軸とする小説に集中するのはいい。だがその次の世代をおろそかにしてはいけない。
 使命というほど大それたものではない。これは言わば、恩返しなのだ。
 病弱で、無気力で、仕事など何一つ続かなかったこんな人間に生きる居場所を与えてくれた探偵小説への、恩返し―。
 しかし——と、踏みとどまる自分もいた。
 少年向け探偵小説。それを書くには無垢な少年の目が必要だ。今の自分にそれがあるだろうか。
 怪しくうごめく陰謀。軽い身のこなしで犯罪をして回る怪人。それを追う都会的な名探偵。彼に協力する、どこにでもいそうな子どもたち。手に汗握る展開と捻りの効いた筋。少年少女の心をわしづかみにする、どこまでも純粋で夢見がちな視点が、今の、五十四歳になったこの江戸川乱歩に果たして―?

 幸子と千暁を見送ったあと、太郎は書斎に戻り、光文社の金井の名刺を出した。
 光文社の電話番号をダイヤルし、受話器に耳を当てる。
 ―平井さん、私たちはいったい、どんな子どもだったんでしょうね?
 呼び出し音の向こうに、横浜の寒風に吹かれた杉原の言葉が聞こえた気がした。
「懐古するにはまだ早いぞ、センポ」
 太郎はつぶやく。
「私は、こんな子ども・・・・・・だ」

(つづく)