十一月の初め、晴生が突然こんなことを言い出した。
「お父さん、お母さん、天国ってとってもきれいなんだよ」
千畝は満州時代に、幸子もヨーロッパにいるあいだにキリスト教の洗礼を受けている。しかし子どもたちにキリスト教の教えを強要したことはなかった。
「僕、子どものうちに天国に行くんだ。それで天使になるよ」
「晴生が死んだら、ママたちが悲しいでしょ」
幸子がすぐにそう言った。
「そうだ。そんなことを言うもんじゃないぞ」
千畝が頭をなでると、「そうかあ」と晴生は不本意そうに口を尖らせた。
数日後、いつものように横浜で雑貨を仕入れ、夕方鵠沼の家に帰宅すると、晴生は布団に寝かせられていた。幸子、千暁、それに医者と思しき老人が布団のそばに正座し、弘樹は部屋の隅で一心不乱に聖書を音読している。
「あなた……晴生が……」
千畝の顔を見ると、幸子は青白い顔で涙を流した。
その日、晴生の通う学校は遠足の行事があった。弁当を持って張りきって家を出た晴生だったが、一時間ほどして「頭が痛い」と帰ってきたそうだ。布団に寝かせると鼻血を出し、顔が真っ赤になり、それ以降呼びかけても返事がないとのことだった。
「先生、晴生はなんの病気なんです?」
医者は何も言わず、首を振った。千畝は一晩中、布団のそばに付き添った。いつ晴生が目を覚ましてもいいように、ずっと待っていた。
だが夜明けとともに、晴生は息を引き取った。
後日、小児癌だったと告げられた。――症状が出たときにはもう手遅れの状態だったろうと医者は言った。
*
千畝の話が終わると、平井はしばらく沈黙の底に沈んだ。
だがややあって、口を開いた。
「十一月というと先月のことか?」
「はい」
「我が子が死んで間もないのに、働いているのか」
そんな悲しみを背負って――という意味だろう。はいそうです、と千畝だって言いたい。だが、言うわけにはいかない。
この国の人たちは戦争で多くの身内を亡くした。むしろ公使館や領事館という安全な場所で、何不自由なく戦中を過ごせたことが幸福すぎたのだ。病気で我が子を失ったことは悲しいが、同じように理不尽な形でわが子を失った親が、この国にどれだけいるか。
「せっかく戦争を生き延びたのに、命を落とした仲間が、私にもいるんだ」
悲しみを吐き出すように、平井が言った。
「小栗虫太郎という、稀有な才能の持ち主だった。衒学的で、読者を翻弄する筆致。難解なのに没入感は並の小説の何倍もあり、何より探偵小説への愛であふれていた。戦争が終わり、これから長編にとりかかるつもりだと言っていたのに……去年の二月に死んだ。病気で、あっけなく」
まるで口から石でも吐き出しているかのように、苦しそうに平井は言った。
戦争を生き延び、これからだったのに死んだ――その言葉に、晴生とは別に、一人の政治家の顔が思い浮かぶ。
松岡洋右。GHQにより戦争犯罪人として裁判にかけられたが、すでに病魔に侵されており、昭和二十一年に鬼籍に入っていた。千畝がそれを知ったのは帰国後のことだ。もう一度話したかったと、涙が止まらなかった。
「腹立たしいものだな」
平井がつぶやいた。
「なぜこれからの人間が死ななきゃいけないんだ。そして、なぜ、残された者はこんなに喪失感を抱かねばならんのか。死んだ者も、残されて絶望を払しょくできない自分も、腹が立ってしょうがない」
腹立たしい……その言葉とともに感情を吐露した平井を、千畝は見つめる。共感を覚えるとともに、どこか冷静でもあった。
この先の人生にはもう、光などないのかもしれない。それでも生きていかなければならない。残された家族のために。どんな絶望を抱えようとも。
そのときだった。
「ほんっとに、腹が立つわ!」
すぐ後ろで絶叫にも似た怒声がした。千畝と平井は振り返った。
二人が座っている数段上に、やけに派手なワンピースを着た十歳ばかりの女の子がいた。子どもだてらに化粧をして、髪に花の飾りをつけているが、その眉は怒りで吊り上がっていて、紅のついた唇はひん曲がっている。
「なんで私が不合格なの!」
「なんだって?」平井が訊ねる。
「『のど自慢』よ!」
彼女が指さしたのは、空襲の焦げ跡の痛ましいビルだ。先ほど、寒風にはためく「江戸川乱歩氏来る!」のチラシの横に「NHKのど自慢大会」のポスターが貼ってあったのを千畝は思い出す。
「審査員のおじさんたちったら、鐘ひとつ鳴らしゃしない。『子どもに大人の恰好をさせて歌わせるなんて胸糞が悪い』なんて言っちゃってさ。私の前に歌ったおばさんなんかより、ずーっと私のほうが上手だわ」
ぷりぷりとしているが、確かにその声には普通の子どもにはない厚みが感じられるような気がした。
「おじさんたち、暗い顔してるわねえ。私が歌ってあげようか?」
千畝と平井の顔を見比べるようにして、彼女は言った。
「いや、ええと……」
「いいじゃないの。私が本当に歌が上手だってことを見せてあげるわ」
二人の間を縫うようにして階段の下へ降りると、片足に重心をかけ、胸に手を当て、あーあー、と声の調節をした。
「本格的だね」
平井が苦笑すると「当り前よ」と彼女は胸を張る。
「私、淡谷さんと同じ舞台に立ったこともあるんだから。芸名だって伴淳三郎先生につけてもらったのよ」
そして、ポーズをとって歌いはじめた。最近あちこちで流れている、『リンゴの唄』という流行歌だった。横浜の大通りはもちろん、鵠沼の海沿いの道で小学生が歌っているのを聞いたこともある。
だが、今、千畝の耳に聞こえる歌声は単なる子どもの声ではなかった。音楽には疎い千畝にもわかる、胸を震わせる大人の歌い方であった。いつの間にか、千畝たちの周りには人が集まっていた。皆、彼女の声に一心に耳を傾けている。
歌い終わったときには大喝采が巻き起こった。もちろん千畝も拍手を送った。
「こら、和枝!」
背後から怒鳴り声が聞こえる。聴衆の後ろで、今歌った彼女と生き写しの中年女性が拳を振り上げていた。
「勝手にうろちょろするなって言っただろ」
「ごめんなさい。……それじゃあおじさんたち、元気出しなさいよ」
「君!」
一段飛ばしで階段を駆け上がる彼女を、平井が呼び止めた。
「芸名があると言ったね?」
「ええ」少女は嬉しそうに振り返る。「美空ひばりっていうの。おじさんたち得したわね。今に、日本中に知られる歌手になるわ」
「行くよ!」
母親に手首をつかまれ、彼女は去っていった。聴衆も何事もなかったかのように、散っていく。
「子どもは強いね」
ぽつりと平井が言った。
「ええ」
さっきまで晴生のことを思い出していた千畝は自然にそう答えた。希望。今の彼女の姿からはその二文字を感じられた。そして千畝の追憶の糸の先に、もう一つの疑問が引っ掛かる。
「平井さん、私たちはいったい、どんな子どもだったんでしょうね?」
その問いが意外だったらしく、平井は千畝のほうに顔を向けた。
答えは返ってこず、ヴォーッ、とまた、汽笛が聞こえただけだった。
(つづく)