猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 ヴォーッ、と、汽笛の音が横浜の寒空の下に響く。黒いコートの襟を立てた男が二人、目の前を通り過ぎていく。
 港を見下ろす階段に、千畝は平井と隣り合って腰かけている。
 波は灰色にうねっている。きっと日本が戦争に突入するずっと前から、この景色は変わらなかったのだろう―と、千畝はなぜかそんなことを思った。
「許せんな」
 長らく黙っていた平井が口を開いた。
「君がビザを発給していなかったら、彼らはナチスに捕まって殺されていた」
「ええ。しかし、私は役人なのです。正当な手続きによってのみ、仕事をすることができる存在です」
 今や、身の汚れを感じるような言葉だった。
「ましてや戦争中となれば、か」
 平井は白い息を吐いて顔を上げる。千畝もつられるように空を見ると、カモメが三羽、自由を見せつけるように飛翔していた。
「それで、今は何をしているんだ?」
「午前中は横浜港で積み下ろしの手伝いを。午後、市場で雑貨を仕入れます」
 千畝はトランクを叩く。
「そんなものを仕入れてどうする?」
「港湾作業のない日は、鵠沼の住宅街を回って売るんです」
…外務省に勤めていた男が、行商をしているのか」
 平井の顔に悲しみが浮かんだのが、千畝にはわかった。千畝を傷つけまいと考えたのか、平井はすぐにぱちんと手を叩いた。
「君は外国語が堪能だ。外国語を使える職などいくらでもあるだろう」
「進駐軍がそこらに溢れる今、英語を話せる日本人は珍しくなくなりました。ロシア語を使おうにも、アメリカが敵視しているソ連の人間は日本には入ってきません」
「それなら小説の翻訳の仕事を回そう。そうだ、それがいい」
「せっかくですが」千畝は首を横に振った。「僕はむしろ日本語を書くのが苦手なのです。平井さんの書くような、読み物として成立する文章など、無理なのです」
 ううむ…と平井は額に手をやった。
「お気遣いありがとうございます」
「いや、あきらめるな。考える。子どもにも立派な父親像を見せねばならん」
 子どもと聞いて、千畝の心にチクリと針が刺さった気がした。その千畝の悲しみを、平井は見逃さなかったようだ。
「どうかしたのか?」
「ええ…」
 穴の空いた靴に目を落とし、千畝は話を始めた。
 
       *

 振り返ってみれば、三男の晴生はるきは初めから不思議な子だった。生まれたのはカウナスにいた一九四〇年の五月の末。産声を上げないので心配したが、やがてか細い声で泣いた。 
 それからわずか二か月でユダヤ人が領事館に押し寄せるようになった。忙殺されて晴生の面倒などまったく見られなかったが、一度だけ、晴生を抱いた幸子が千畝に何かの用事を伝えに来たことがある。部屋の中にも廊下にもビザの発給を待つユダヤ人が不安そうな顔をしていたのだが、晴生が突然キャッキャと笑い出したのにつられ、殺伐とした雰囲気が一気に緩んだのだった。
 めったに泣き叫ぶことなどなかった晴生だが、プラハの総領事館にいたときにこんなことがあった。
 あるとき、駐プラハドイツ公使館に、ナチスドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップがやってきた。歓迎パーティーのために枢軸国側各国の外交官が呼ばれたが、パーティーが始まる前、会場に同伴の妻だけを残して外交官たちは隣室に集められた。
 入り口に、見るからに獰猛なドーベルマンを伴った軍人の立つ、いかにもナチス風の部屋だった。鷲の紋章とハーケンクロイツをあしらった軍服に身を包んだリッベントロップ外相は、ヒトラーの写真を背にふんぞり返って集まった外交官を見回し、開口一番「プラハから出ていけ」と言い放った。
 曰く、チェコはすでに第三帝国の勢力内にある。ゆえに、同盟国側の公使館・領事館はすべて不要なのだ、ということだった。だが、本国の命令がなければ公使館を閉鎖するわけにはいかない。外交の暗黙のルールを軍靴で踏みにじらんばかりの横柄な態度に、千畝は思わず抗議した。
「なぜ不要なのですか。根拠を教えてください」
 リッベントロップ外相は蛇のような目で千畝を睨む。他の国の外交官たちはそもそもドイツ語が苦手と見え、怯え切っていた。ヨーロッパを飲み込む勢いの軍事大国の外務大臣。その威圧感に千畝の背筋にも汗がにじんだ。
 パーティー会場から嵐のような大きな泣き声が聞こえてきたのは、そのときだった。
「なんだ?」
 リッベントロップ外相は部下に問うた。戸惑う彼に代わり、千畝が答えた。
「うちの子どもです」
「なぜ子どもなど連れてきた?」
「面倒を見てくれる者が休んでおりまして。前もって公使に了解は得ております」
「泣き止ませてこい」
 千畝は頭を下げ、ドーベルマンと軍人の前を通り抜けてパーティー会場へと戻った。普段はけして外では泣かない晴生が、割れ鐘のような泣き声を上げている。彼を抱いているのは幸子ではなく、鼻の高いゲルマン系の女性だった。
「すみません、この子の父です。私が代わりましょう」
 彼女はさっと、千畝に背中を向ける。
「私は子どもを五人も育てたのよ。泣き止ませられるわ」
 一言交わしただけで、高慢な性格が見て取れた。中年であることと、幸子を含めたその場の女性たちが遠慮していることから、リッベントロップ外相の妻と思われた。
 あらゆるあやし方をしても晴生が泣き止まないと見るや、夫人は「夫を呼んできて」と壁際に立つ軍人に命令した。ややあって連れてこられたのはやはりリッベントロップ外相だった。
「ミルクとおしゃぶりを持ってきて。おむつもよ。あと、ゆりかごに積み木に、ほら、あなた方の自慢の戦車編隊の玩具も!」
「ここはベルリンじゃないんだぞ。手に入るものか」
「ナチスに不可能はないといつも言っているのは誰よ! 私に恥をかかせる気?」
 外相は妻に尻に敷かれていると見え、ちらりと千畝のほうを見ると、屈辱で顔を真っ赤にさせながら部屋を出ていった。見送る夫人たちはみなその姿に笑いを隠し切れなかった。
 リッベントロップ外相が手を尽くしてミルクその他を揃えたとき、すでに晴生は祝福されたように健やかな顔ですやすや眠っていた。一連の騒動で、総領事館閉鎖の話はうやむやになってしまった。
 実際、晴生は天使のような子だった。話しはじめるのは弘樹ひろき千暁ちあきより遅かったが、シベリアの収容所を転々としているときもいつも笑顔だった。空腹で気が立っている他の収容者も、鉄格子の向こうで絶望を抱えながら作業をしている日本兵たちも、その笑顔を見ると明るい顔になるのだった。
 帰国後、窮乏生活を強いられたときも、外務省を辞めさせられたときも、晴生は千畝の心を和やかにさせてくれた。