第七話 それぞれの再起【3】
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前回のあらすじ
横溝正史の画期的作品『本陣殺人事件』を食い入るように読んだのは、乱歩だけではなかった。今では著名な「あの人」もまた――。
三、
昭和二十二(一九四七)年十二月十日。
杉原千畝は、横浜にいた。港にほど近い、小屋の立ち並ぶ市場である。小屋といってもバラックに毛が生えた程度で、ベニヤのような薄い板の上に並べられているのはさび付いた鍋釜、穴の空いた靴、泥のついた雑誌など、こんな時世でなかったらゴミと思われるものばかりだった。
そんな中、きちんと使える製品を扱っている店もある。どこか田舎から流れてきたものか、それとも外国から輸入されたものか――よくわからないが、電球やちり紙、マッチに文房具……そういう細かいものを一挙に買ってはトランクに詰め込んでいく。
「はい、これで三十円」
「いや、二十円五十銭と言ったじゃないですか」
「そりゃこのマッチだけの値段。ゴム紐をつけたら三十円。いらないならいいよ、マッチは今年高騰してるから他にも買い手はいるから」
顔中皺だらけのだみ声の男がぶっきらぼうに言ってくる。千畝はしぶしぶ言われた金額を払い、商品をトランクに詰め込んだ。
ロシア語なら負ける気はしないが、どうも日本語での交渉は苦手だ。今日はこれくらいにしよう。お花買ってくれよ、空き瓶買ってくれよと付きまとってくる十五、六ばかりの少年を振り払い、表通りに出て駅を目指す。布製の靴に空いた穴から入り込んだ寒気が、背骨の中心まで沁み込んでいく。
ふと、「催し物」と書かれた掲示板が目に留まり、千畝は足を止めた。
『NHKのど自慢横浜大会』のポスターの横に、糊が半分はがれてばさばさと寒風にあおられているチラシが貼ってあった。
『探偵小説の大家 江戸川乱歩氏講演に来る! 本日』
「平井さん……」
最後に会ったのはもう何年も前になる。別に急ぐ用事もないので、会場の小学校へ足を運んだ。
校門のところで立ち止まる。子ども連れで入っていく人もいる。立派なコートを着た紳士もいる。
校門脇の立て看板に、江戸川乱歩の簡単な紹介が書かれていた。
【大正十二年、『二銭銅貨』にて作家活動を開始。以後、『D坂の殺人事件』『人間椅子』『陰獣』他多数の作品を世に送り出し、探偵小説作家として世に知られる。戦中は活動を休止したが、戦後再開。今年、探偵作家クラブを結成。『随筆探偵小説』を上梓し、日本の推理小説界の中心として活動している】
自分が日本を離れている間に、立派になったのだな、と思う。そして戦後、この荒廃した日本において希望の光となっている。
ややあって、千畝はまた、駅に向かって歩きだす。別に会いに行くこともないだろう。もう、別の世界の人だ。
再び元の大通りに出て少し歩いたところで、黒塗りの乗用車とすれ違う。乗用車はキキッと音を立て、千畝の背後三十メートルほどで急停止した。乱暴な運転をするものだと振り返ると、後部ドアが開いて、山高帽をかぶった五十ばかりの男性がひょっこり顔を出した。
「センポじゃないか?」
すぐにわかった。細長い顔に、丸いレンズの眼鏡。だいぶ老けたが、平井太郎その人だった。
「平井さん」
「おいセンポ、君にずっと言いたいことがあったんだ」
平井はそう言うと同乗しているらしき誰かに話をつけ、一人で降りてドアを閉めた。発進する車に目もくれず、千畝に近づいてくる。
「あれはアメリカに宣戦する前の年だったか、うちにバロンが来たぞ」
「あ、ああ……」
戸惑う千畝に平井は詰め寄ってくる。
「ユダヤ人だったんだな。ナチスの魔の手を逃れて来日した仲間を、アメリカかカナダに向かう船に乗せたいが、便と船賃を手配してほしいと無茶なことを言ってきた。聞けば、無理やりビザを出したのも、私に頼るように入れ知恵したのも、リトアニアにいた君だというじゃないか」
「そうなんです」
苦笑いしか出なかった。
「どういうつもりだ。外交官というのはそういう仕事か」
「いや、あの……」
戸惑っていると、平井はトランクを持っていないほうの千畝の手をぎゅっと握ってきた。
「よくやった」
「はい?」
「あとで知ったよ。バロンの話から想像するよりずっと、ナチスという連中は苛烈で極悪で、そして卑怯だった。あんな連中のために命を落とす人間がいてはならん。それに……」
と平井はようやく笑みを見せた。「ザングウィルはよかった」
千畝はその顔に、そこはかとない懐かしさと安心を覚えた。
「バロンたちはどうなりましたか?」
「心配ない。仲間の作家に横溝というのがいて、彼の伝手で船は手配できた。最終的には、船賃も少し横溝に負担させた」
肩の荷が下りた気がした。涙腺が緩んできて、太郎の顔が歪んだ。
「ありがとうございます……」
「いや、いいんだ。ところで何だこのトランクは? 外務省はどうしたんだ?」
何から話そうかと迷っていたら、「少し歩かないか」と平井は誘ってきた。
「講演ではないのですか?」
「なぁに、あと一時間半もある。潮風にあたりながら、君のヨーロッパでの話を聞こうじゃないか」
*
カウナス領事館が外務省命令によって閉鎖したのは、一九四〇年の八月のことだった。ビザ発給を求めるユダヤ人はなお引きも切らなかったが、千畝は断腸の思いでカウナスを離れ、ベルリン経由で次の任地であるプラハへ入った。
半年後の一九四一年二月にはドイツ領ケーニヒスベルクに赴任し、さらにトルコ勤務を経て十一月にはルーマニアのブカレストに異動した。
そのブカレストで、千畝とその一家は終戦を迎えた。
だが、戦争が終わったからといって直ちに平穏が訪れたわけではなかった。
日本がポツダム宣言を受諾した直後の八月十五日、ブカレストでの住まいとしていた家にソ連軍の将校がやってきた。
「あなたがたを、収容所へ送ることになりました」
口調こそ丁寧だったが、有無を言わさぬ強制力を纏って、将校は言った。家族や公使館の職員はまとめてトラックに乗せられ、ブカレスト郊外の収容所に運ばれた。
その後は黒海北岸の町オデッサを経由してモスクワへ。シベリア鉄道の貨車に乗せられ、スベルドロフスク、ノボシビルスク、イルクーツクと極寒のシベリアの収容所を転々とさせられた。確実に日本に近づいてはいるが、本当にソ連が日本に送り返すかどうかはわからないままだった。ゆく先々の収容所で、ソ連に捕らわれた元日本兵が強制労働させられているのを見た。
外交官ということで千畝が強制労働に回されることはなかったが、「あんたはロシア語が堪能だからこのままソ連で通訳をさせられるかもしれねえな」などと意地の悪いソ連兵に言われ、絶望を抱いたこともあった。
不安と苦痛。不衛生と寒気。あらゆることに耐えに耐え、ウラジオストックから船に乗って博多に着いたのが今年の四月のこと。実に一年八か月にわたる旅を経た帰国だった。
千畝たちはまず、幸子の親戚筋にあたる沼津の家に居候したが、すぐに鵠沼に家を建てた。ただちに仕事に復帰したいと思っていた千畝だが、外務省からは「しばらく休養するように」と言われた。
心遣いはありがたかったが、それでは給与が出ない。食べ盛りの子どもたちを三人も抱えて戸惑うこと二か月、ようやく外務省から呼び出しがあった。
「お久しぶりです」
岡崎というその上司は次官になっていた。
「ああ、まあ座りたまえ」
どこか居心地が悪そうに、上司は千畝に椅子を勧めた。そして、千畝が座るなり、言ったのだ。
「悪いが君には、外務省を辞めてもらう」
「はい?」
「例のことが理由だよ」
目の前が一瞬真っ白になったが、岡崎が何を言っているのかはわかった。カウナス領事館に押し寄せるユダヤ人。一縷の希望に命をつなごうとする彼らのため、右手の感覚がなくなるほど発給し続けた、不当なビザ――。
「まあ、君だけじゃないんだ。敗戦の影響でどこの省も人員整理にてんやわんやなんだ。理由なく解雇される者のほうが却って不幸だろう」
退職金はちゃんと出るから――岡崎の声は、どこか遠くから聞こえているようだった。