第七話 それぞれの再起【1】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

ビザを求めて押し寄せるユダヤ人たち。その中に変な日本語を話す男がいた。まさかあれは―千畝の生涯の決断の時が迫る。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     一、

 昭和二十(一九四五)年八月十五日。
 太郎たろうは福島県の片田舎にて、薄い布団の上で腹部を押さえたままうずくまっていた。疎開してきたのは二か月前。池袋の知り合いの娘の嫁ぎ先である小林こばやしという薬屋の家の二階を間借りさせてもらっているのだった。
乱歩らんぽさん、お加減どうですか?」
 視線を襖のほうにやると、家長の小林が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「いや…昨日よりはよいかもしれません」
 三か月前から発症した大腸カタル。福島にやってきてからだいぶ良くなったが、今でも動くたびに痛む。五十という年齢にくわえ、食糧難による栄養失調。骸骨に皮を張り付けたような状態で、まだ生きているというのが不思議なくらいだ。
 実際太郎は、五月の池袋の空襲以来、より強く死を意識するようになっていた。殺人を扱った倒錯趣味の探偵小説を読んだり書いたり―かつての背徳的な生き甲斐が、今や現実の悲劇の前で健全に思えていた。
「昨日も申し上げましたが、まもなくラジオで重大放送があるそうです。陛下が自ら放送なさるとか。みなと一緒に下で聴きませんか」
「ああ、そうでしたね」
 曲がりなりにも大政翼賛会の豊島区支部で幹部をしていた身である。陛下のお言葉とあっては聞き逃すわけにはいかない。太郎はよろよろと立ち上がり、小林について階段を降りていった。
 二十畳敷きの広間には近所の者も含め、三十人ほどが集まり、正座してラジオに向かっている。小林の手引きで、太郎は最前列のいちばんラジオに近い場所に座らされた。
「あなた、大丈夫なんですか?」
 すでにそこにいた隆子りゅうこが訊ねてくる。
「ああ…」
 力なく答えた。
 やがて、ジジ、ジジジ…という音がラジオから聞こえてきた。アナウンサーが何事かを言った後で、いよいよ陛下の声が流れだす。
〈チン…カク…テイコクノ…〉
 初めて聞く陛下の声は、思ったより甲高かった。
…シュウセム…チュウリョーナル…〉
 何を言っているのかよく聞き取れない。だが、放送の途中から、背後でむせび泣きが聞こえた。
 振り返れば、国民服姿の十八ばかりの青年が泣いている。隣の家の学生で、勉学こそ優秀だが病弱で足に障害があり、兵隊にとられなかったのだそうだ。
 ややあって、放送は終わった。
「乱歩さん、陛下は何と?」
 小林が訊ねてくる。太郎が少しばかり名のある作家だというのは近隣に知られており、他の面々も、乱歩さん、乱歩さんと迫ってくる。
「ええと、ですな」
 よくわからなかった、などと言える雰囲気ではない。助け舟を出してくれないかと隆子を見るも、すぐに視線を外された。
「戦局が、そんなによくなく…」
「米英支蘇四国に対し、共同宣言を受諾するとのことです!」
 例の青年が膝の上の両手を拳にし、涙を振り絞らんばかりにして叫んだ。小林がそちらを見る。
「そ、それはどういう…」
「敵国の申し出を受け入れ、戦争を終わらせるということです」
 おお…と声が上がった。
「この暮らしが終わるのか」
「そんなに生易しいものではありません。陛下は『今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず』と…おそらくはアメリカに占領され、屈辱の日々を強いられるということでしょう」
「なんと!」
 頭を抱える小林。ただただ呆然とする女性。歯を食いしばり、拳を畳に打ち付ける老人…皆がそれぞれの感情と葛藤していた。
 そんな中、太郎は「アメリカ」という言葉に引っ掛かりを覚えていた。