猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

  • ネット書店で購入する

 アメリカ―それはポーを生んだ国。ヴァン・ダイン、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カー…多くの才能が活躍する国。戦前はよく読んだものだが、ここ数年は新刊が読めていない。占領軍の中には、暇つぶしに彼らの本を持っている者もいるだろう。読み飽きて日本で売り飛ばすこともあるだろう。
「ああ、陛下!」
 小林が畳に頭をこすりつけるようにひれ伏した。敗戦の報告という残酷な内容だったにせよ、陛下の声に感極まったらしかった。連鎖するように、みなひれ伏す。
「あなたも、ほら」
 隆子が袖を引っ張るので、太郎もまたひれ伏した。ひれ伏しながらなお、アメリカの探偵小説が読める可能性に期待が高まってしかたない。
「あなた」隆子が太郎だけに聞こえる声で囁いた。「これでようやくまた、好きな小説が書けますね」
 いつの間にか似たもの夫婦になっていたのだなと感じた。
 太郎が東京に戻ったのは、それからわずか三か月後のことだった。予測した通り、あちこちの古本屋には進駐軍の兵隊たちが売り払っていったと思しき本が大量に積まれ、中には探偵小説やサスペンスもあった。
 昭和二十一年の三月には、進駐軍が日比谷に図書館を開き、日本人にも一般開放された。太郎はほとんど毎日通い、めぼしい小説を片っ端から読んでいった。
 相変わらずの食糧難だったが探偵小説に没頭しているとひもじさを忘れ、腸の調子は嘘のようによくなっていた。中でも太郎を惹きつけたのは、『Good bye, New York』という作品だった。
 貧しさゆえ犯罪に手を染めた男と、彼を愛する女。ニューヨークの都市の空気の中、緊張感のあるサスペンスが紡がれていく。日本の作家にはない洗練された筆致に、アメリカへのあこがれが一気に高まった。
 作者のコーネル・ウールリッチはウィリアム・アイリッシュという別名義で『Phantom Lady』という作品を書いていることを知った。どの評論を見ても絶賛されているその作品をどうしても読みたくなったが、司書代わりのアメリカ人職員はそっけなく首を振るだけだった。
 しょうがないのでめぼしい古本屋を片っ端からあたり、書名を書いたメモを残して「この本があったら連絡してくれ」と言って回った。
『Phantom Lady』…幻の女。お前は一体どういう作品なのだ?
 心臓が高鳴っていた。図書館に通い詰めて片っ端から海外の探偵小説を読んでいく…それはまるで、早稲田の学生に戻ったかのような気持ちだった。
 だが―あの頃とは違う。
 探偵小説はもう発展している。トリックもプロットも複雑になっている。戦争で日本の探偵作家が軒並み活動を中止させられているあいだ、アメリカではさらに面白い作品が生み出されている。ヨーロッパでもまた同様だろう。こうしてはいられないと、太郎は東京中の同志に会って回った。
 水谷みずたにじゅん大下おおした宇陀児うだる、その他探偵小説に明るい出版人たちはみな同じ気持ちで、太郎にすっかり鼓舞された。
「乱歩さん、あんた社交的になったなあ」
 そんな声をかけられるようになった。
 戦中の防空指導係長の経験が、そうさせたのかもしれなかった。それならそれでよかった。戦争が終わり、人々が娯楽を求めているのは肌で感じていた。焼け跡が痛ましい東京の街を歩きながら、太郎の心中には希望と意欲の炎が燃えていた。
 書いてやるんだ、俺が。戦後の日本の探偵小説の扉を開く、エポックメイキングな作品を!

 そのときの太郎はまだ、知る由もなかった。
 日本の探偵小説の新時代を拓く作品が、東京を遠く離れた岡山県の田舎の村で、すでに着々と生み出されつつあることを。

(つづく)