怪談刑事

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「それで? ここへきて、何かわかったことはあるのですか?」
 むしろ、間諜の教官のような態度だ。千畝は足元を指さす。
「ここはなだらかな地形をしている。周囲に要塞のような軍事施設もなく、戦車で侵入しようと思えば簡単に実行できる」
「じゃあここからソ連軍が入ってくるというのですか?」
「もしそのつもりなら、秘密裏にでも演習が行われているだろう。どこか秘密の拠点に物資を運んだとしたらトラックのわだちが残っているはずだ。軍靴の跡もどこにもない。穏やかな国境そのものだよ」
「じゃあ侵攻はないのね?」
「直ちには、ね」
「どういうことですか?」
 含みのある言い方を、幸子は感じ取ったようだ。
「政治的な手法を使って、リトアニアを強制的にソ連に編入させるつもりかもしれない。軍事力はそれをスムーズに済ませるための手段だ」
 ソビエト連邦はもともと、社会主義を掲げる国家の連邦として誕生した。軍事侵攻をするより、リトアニア国内の社会主義勢力を焚きつけて親ソ連政府を樹立させ、併合してしまうほうがいい。
「今はまだ、その下地作りをしているのだろう」
…わからないわ」
 幸子は寂しそうに首を振る。
「外交ってやっぱり難しいのね」
「君はそんなことに気をもむ必要はない。それより心配なのは、私たち家族の運命だよ。リトアニアがソ連の一部になったらどうなるか…」
「どうなるの?」
「私はペルソナ・ノン・グラータ、つまりソ連領内にいてはいけない人間だ。また別の任地に行くことになるだろう」
 それは、ナチスドイツに占領されたいずれかの地域かもしれない。厳格にして残酷なナチスの領土に家族を連れて行っていいものかどうか…。
「私たちはどこへでもついて行きます」
 千畝の心中を察するように幸子は言った。
「家族ですもの」

 ソ連がリトアニアに侵攻してきたのは翌年、六月十五日のことだった。おびただしい数の兵士を前に、政府は勝ち目などないと判断を下した。現職の大統領は亡命し、社会主義の政府が樹立され、リトアニアは事実上、ソ連に併合された。
 フランスではパリがナチスドイツに占領され、世相は戦争一色に塗りつぶされているはずなのに、カウナスの日常は不気味なぐらい穏やかだった。朝が来れば市場には新鮮な野菜が並び、人々は通勤をした。だが千畝はわかっていた。市民たちが怯えていることを。
 街のあちこちにソ連兵が立ち、もうここはお前たちの知っているリトアニアではないのだと無言の圧力をかけつづけている。社会主義に反対する団体の構成員が秘密裏に逮捕され、連れ去られているという噂が、千畝の耳にも届いていた。
 そんな中、杉原すぎはら家にまた一人、家族が増えた。晴生はるきと名付けられたその赤ん坊は、体が大きく、泣き声の大きい元気な男児だった。
 幸子は顔をくしゃくしゃにして喜び、また男の子じゃ大変になるわと節子は笑い、「弟! 弟!」と二人の兄ははしゃいだ。千畝もまた幸せだったが、同時にソ連がカウナス領事館を閉鎖せよと言ってくる予感を抱いていた。
 リトアニアに来てから、千畝の予想は当たりっぱなしである。ただ一つどうしてもわからないのは、自分と家族の運命だった。
 カウナス領事館が閉鎖されたら、今度はどこへ飛ばされるのか―そしてそこで、自分は何をできるのか。
 平和は外交によってのみ導かれる。かつて広田ひろた弘毅こうきにそう教えられたものだった。今後、そんなことができるのだろうか。強者が弱者に武器を向け、大国が小国を虐げる。大国同士はお互いを出し抜いてやろうと来るべき衝突のことを常に考えて爪を研ぐ。市民はそれに気づきながら、怯懦きょうだを笑顔の仮面で隠し、必死で「当たり前の日常」を繕っている。
 今のヨーロッパに、平和などない。
 千畝もいつしか、役人として「当たり前の日常」の一部になろうとしていた。いつ追い出されるのかもわからない、宙ぶらりんな平穏の日々が流れていく―。
 だが千畝はやがて迎えることになる。
 目が覚めるような運命激変の日―一九四〇年七月十八日を。

(つづく)