第六話 ヨーロッパへ【5】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

ソ連に入れない千畝は、妻子と共にフィンランドのヘルシンキ勤務に。気丈夫な妻幸子に支えられ平和な暮らしが続くのだが…。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

 

     五、

 千畝ちうねが家族を引き連れ、カウナスのホテルに入ったのは八月二十八日のことだった。ホテルの部屋に幸子ゆきこと義妹、二人の子どもをおき、千畝は物件を探しに街へ出る。
「ああ、聞いていますよ」
 外務省が話をつけていた不動産業者は、聞き取りにくいがドイツ語をしゃべることができた。千畝と同じぐらいの身長で、頭が禿げあがった男だ。ヨーロッパ人の年齢はわかりにくいが、五十歳は過ぎているだろう。
「四つほど見繕みつくろっておきましたから、さっそく見にいきましょう」
「歩いていくのですか」
「ええ。こんな小さな街ですからね」ぷふっ、と不動産業者は笑う。「すぐに領事館にできる建物なんて限られてますよ」
 カウナスの建物は、ずいぶんと小さな印象だった。人通りも少なく、野菜や果物を売る露店の店主も暇そうにぼんやりしている。ヘルシンキと比べてだいぶ寂しい印象だった。
 カウナスに領事館を開き、領事代理として赴任せよ。その命令の真の目的を、千畝はもちろん外務省から知らされていた。
 すべてのきっかけは、満州国とモンゴルの国境にほど近いノモンハンで起きていた。
 五月、ソ連軍と関東軍が軍事衝突し、それが今も続いているのだ。目下中国と交戦中である日本としてはソ連との戦闘を拡大させるのは得策ではなく、外交による停戦を急ぎたい。そこで、ソ連に明るい外交官を数人ピックアップして主要な都市に配置し、停戦交渉を有利に進めるための情報を集めることにしたのだ。
 リトアニアはソ連とは直接国境を接していない。本来の首都であるビリニュスは目下のところポーランドに支配されているため、第二の都市カウナスが仮の首都になっている。他の外交官が派遣されたラトビアのリガやエストニアのタリン、ポーランド領内のリヴォフなどに比べてソ連との和平に繋がるほど重要な情報を得られる可能性は低いと思われるが、今後ドイツやポーランドの情報が必要になったときに情報拠点になることを見越し、外務省は領事館を開くことにしたのだった。
「ここが一つ目の候補になりますね」
 不動産業者が立ち止まったのは、威圧的な雰囲気の灰色の建物だった。
「もともとは銀行の建物だったんですよ。そのあとレストランが入ったけど流行らなくてね」
 入り口が大きいから人は多く受け入れられそうだ。だがそもそも人を受け入れるための領事館ではない。それに、一番重要な条件が備わっていないように見えた。
「車庫がありませんね」
「なに? 車を運転するってか」
「領事館は公用車を持ちますので」
 本当は、国境付近の様子を視察しに行くための車であった。そんなことを知らない不動産業者は「ちょっと待てよ」と、手持ちの書類をばさばさと確認しはじめる。
「おいおい、車庫があるってなると、一軒しかないぞ」
「そこへ案内してください」
 肩をすくめて歩きはじめる不動産業者についていく。
 案内されたのは小高い丘の中腹に位置する、柵に囲まれた建物だった。さっきの元銀行よりは小さいが住みやすそうな民家で、一階にホールとキッチン、二階には寝室と思しき部屋がいくつかとキッチン、バスがある。
 千畝はその物件を、領事館にすることに決めた。一階を仕事場、二階を生活スペースとし、預けていた家財道具を運ばせた。