第六回 ①
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前回のあらすじ
阿賀野鈴、バツイチ40歳、出版社勤務の編集者。実家の〈デザインAGANO〉で従弟でグラフィック・デザイナーの陸と二人きりになった時、編集長の越場さんに家族ぐるみでの食事に誘われたと伝えたら、「鈴は越場さんと新しい恋を始めるの?」と聞かれた。今の上司と部下という日常に不満はないけれども、それだけでは嫌だとも思っている。私の心は、定まらない。
阿賀野陸 三十五歳 グラフィック・デザイナー レタッチャー
ちょっと、考えたんだ。
さて、ボクはどうしようかって。
父さんと母さんが、真下さんの家へ挨拶に行くのはそれはもう良いことだし、しておくべきことだと思った。蘭が近々に真下家を出ていったとしても、阿賀野家と真下家はこれからも親戚としていいお付き合いをしていける。もしも蘭が他の誰かと結婚することになったとしても、真下さんたちは結婚式に駆け付けてくれるだろう。良かったね、きっと晶も喜んでいるよって言ってくれる。あの人たちは、そういう人たちだよ。
それは、それとして。
阿賀野陸は、〈デリカテッセンMASHITA〉のグランドデザイン、ってのはちょっと大げさだけど、大体そんなことを晶くんから請け負っていた。それには阿賀野家である〈デザインAGANO〉はまったく関わってない。
なので、蘭が真下家を出たとしても〈阿賀野陸〉としてはこれからも〈デリカテッセンMASHITA〉のデザインプロデュースをやっていきたい。今後の仕事量はそんなに多くもないだろうけど、新規事業が始まれば今後デザインするものは必ず出てくる。そこに関しては、晶くんの死後ちょっと停滞しているらしくて、まだ打ち合わせもできていないんだ。
何よりも響くんからデザインプロデュースを引き続きよろしくお願いします、と、はっきり依頼されてはいない。ちょこちょこ行って店内の様子を見ているのは、あくまでもアフターケアだ。
そもそも契約書も交わしていない。ケース・バイ・ケースだけど、この業界はいまだに小さな仕事ではいちいち契約書を交わしたりはしない。見積書を出してオッケーとなれば細かい仕様書と請負書が契約書面代わりにしちゃったりする。晶くんともそうしてきたけれど、それは〈デリカテッセンMASHITA〉のオープンまでのグランドデザイン。そこから先の見積書や仕様書はまだ交わしてはいない。
デザイナーにとって自分がグランドデザインした後に、勝手にどこか他のところに頼まれてイメージが違うものを出されるほどイヤなことはないんだ。あるいは、クライアントに自分たちでちょこちょこっとデザインっぽいことをされちゃうのも、困る。意外とそういうのは簡単にできてしまうし、悪意があるわけではないから余計に困る。たとえそれが手書きのチラシやPOP一枚にしても。
「行っておくべきだね」
蘭は実家に戻るそうですが、今後とも〈阿賀野陸〉とはよろしくお願いしますと、そういう挨拶をきちんと響くんに。
営業だ。
父さんと母さんが挨拶に行くときにその話をするのは、違うでしょう。かといって改めて時間をとってもらうのは向こうも煩わしいだろうし、店の営業中にちょっと顔出して挨拶っていうのは礼を欠くことになるだろうし。
だったら、店の閉店後にどこかで響くんと一杯がてらっていう軽さの方がいいかな。
父さん母さんが挨拶に行くより、早く。