神と王 亡国の書

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   ◆

 ―えーと、人参と玉ねぎとー
 ―玉ねぎはまだあるよ。
 ―え、ほんと? じゃああとなんだっけ。
 ―お肉。
 ―そうだ、お肉。それくらいかな。
 ―ヨーグルトは?
 ―あ、それも!

 もう何度も聞いた音声メモを、颯太は飽きずに聞いている。母は買い物リストを音声メモで残す人で、これが最新で最後のメモになった。彼女の使っていたスマートホンは、すでに契約を解除しているが、本体だけは未だ颯太が持ち歩いている。
 ―えーと、人参と玉ねぎとー
 ―玉ねぎはまだあるよ。
 ―え、ほんと? じゃああとなんだっけ。
 画面をタップさえすれば、いつでも母の声はよみがえった。去年の自分と会話する聞き慣れた声は、街の喧騒の中でもせることがない。
 指定された公園のベンチに腰かけて、颯太は右足首をそっと動かす。昨日より随分痛みはましになっていて、歩くだけなら問題ない。骨には異常がないということだから、このまま良くなっていくだろう。
 土曜日の昼前、公園には親子連れの姿もある。バドミントンに興じる父子の姿をなんとなく目で追って、颯太は家にいるはずの秀史と倫はどうしているだろうかと考えた。二人でどこか散歩にでも行っただろうか。
「颯太」
 ぼんやりと音声メモを繰り返し再生していた颯太は、自分を呼ぶ声に、目が覚めるような感覚で意識を引き戻した。
「久しぶりね!」
 目線の先では、母方の祖父母が相好を崩している。こんなふうに笑う人たちだったかなと、颯太は一瞬の間を置いて微笑んだ。この前会ったのはいつだったかと記憶を辿ると、ああ、あの日だったかと、心に僅かな影が差した。
 母と母の両親は、昔からそれほど折り合いがよくなかったと記憶している。険悪と言うほどではないが、母は颯太を連れて実家に帰りたがらず、祖父母もこちらを訪ねてくることはなかった。電話をすることも稀で、年に一度、盆暮れ正月のどこかで顔を合わす程度の、そんな関係だった。
 颯太を近くにある寿司屋に連れて行った祖父母は、新鮮な海鮮の載ったちらし寿司を勧めた。生魚はあまり得意ではないのだが、颯太は子どもらしく明るく礼を言って箸をつけた。
「最近はどうだ、うまくやってるか?」
 日本酒を飲みながら、刺身の盛り合わせを摘まんでいる祖父が、他愛ない会話の途中でそう尋ねた。随分ざっくりした質問だった。
「何か困ってることとかない? だってほら…、あちらは…血も繋がっていないし、ねぇ?」
 祖母が遠慮がちに言って、同意を求めるように祖父に目を向ける。
「実の父親でもない男と暮らすのは、苦労するだろう」
 杯の酒を飲み干して、祖父は眉間に皺を刻んだまま口にした。
「あのねぇ颯太、お父さんとも相談したんだけど、…うちの養子にならない?」
 あまりに唐突な祖母からの誘いに、颯太は思わず箸を持つ手を止めて顔を上げる。
「そうすれば倫くんの面倒も見なくてすむわよ。きっと苦労してるんでしょう?」
 どう答えようか迷って、颯太は曖昧な笑みを浮かべた。養子にと誘うなら、今までにも機会はあった。なぜ今なのだろう。あれ以降、ずっと没交渉だったのに。
「颯太は男だし、きちんとした教育を受けるべきだ。うちに来るなら、大学に行かせてやる」
 祖父はそう言って、手酌で杯に酒を注ぐ。その隣で、祖母も当然のように微笑んで頷いた。
…今のところ、困ってることはないし、学校にもちゃんと行ってるよ」
 颯太は慎重に言葉を選びながら、知らない外国語を話すようにぎこちなく舌を動かした。
「倫と遊ぶのも楽しいし、秀史も、ごはん、作ってくれるし」
「でも、あちらはお仕事もあるでしょう?」
「倫のお迎えがあるから、ほとんど決まった時間に帰ってくるよ」
「そのために仕事をおろそかにするとは、情けない奴だ」
 祖父が鼻で笑うように吐いた言葉が、腐った果実のように嫌な熱を持った。颯太の中で反論したい自分と、それができない自分が、渦を巻いてんでいく。
「颯太にとっても悪い話じゃないと思うの」
 祖母が取り繕うように言って、媚びるような笑みを向ける。
「返事は今すぐじゃなくていいから、考えてみて。ね?」
 颯太は生ぬるい魚の切り身を口に含んだまま、笑顔の形を作って頷いた。

   二、

 颯太が物心ついたころから、母はいくつかの仕事を掛け持ちしていた。中でも螺子ねじなどを作る工場でのパートが主で、三年以上は勤めていたようだ。しかしその工場が、不況のあおりでパートを切ることになり、母も例にもれず解雇となった。最後の給与に少しだけ色は付いたようだが、到底何カ月も暮らせるような額ではない。
「いいのないわねぇ…」
 スマートホンで検索したアルバイト募集の画面を覗き込んで、絢子はぼやく。たまたま一緒に解雇になったパート仲間から声をかけてもらって、期間限定の農協のアルバイトには滑り込んだが、出荷時期が終わる頃にはまた仕事がなくなってしまう。それまでに新しい仕事を見つけなければならなかった。
「あやこ、これは?」
 まだ漢字の読めない颯太は、絢子が持ち帰った無料求人誌を広げて、適当に時給の高いものを指さした。
「あー、これはだめ。夜に出ないといけないから。昼間に働けるやつがいいの。朝は八時か九時からで、夕方五時くらいまで」
 颯太は神妙に頷いて、もう一度誌面に目を走らせ、その時間が書いてあるものを探した。その様子を見て、絢子が小さくため息をついた。
「私が正社員になれれば、それが一番いいのかもしれないけど…。あの時、反対されても大学に行っておけばよかったなぁ」
 颯太にはダイガクもセイシャインもよくわからなかったが、いつも明るい母が、今日はやけに落ち込んでいる、というのはよくわかった。
「でもあやこは気が利くし、いつも笑顔だし、大きな声で挨拶してくれるから上等だって、吉村のおばちゃんが言ってたよ」
 向かいの家の“吉村のおばちゃん”は、苦言も多く苦手に思っている人も多いようだが、自分たち母子のことはよく気にかけてくれていた。
「吉村さん、そんなこと言ってたの?」
「言ってたよ。若いのに頑張ってるって」
「やったー、褒められちゃった」
 絢子はふざけて笑って、颯太の頭をわしわしと撫でた。
「愛想がいいのは昔クラブにいた頃に取った杵柄。でもこれしかできないの」
 きねづか? と颯太が問い返したが、絢子はどこか苦みのある顔をする。
「社会でお金を稼ぐには、それだけじゃ難しいのよ」

 後日母は、農協で知り合った人に紹介されたという、ファミリーレストランのオープニングスタッフとして働き始めた。大学生もシニアもいるという現場は、毎日刺激的らしく、もともと接客業が得意だったこともあって、楽しそうに通っていたことを颯太は覚えている。
 それから半年ほどたったころ、その日は休みだったにもかかわらず、母の働いているファミレスへご飯を食べに行こうと誘われた。目玉焼きの載ったハンバーグが美味しくて、夢中で食べている最中、同じバイト仲間である豊岡とよおか秀史と名乗る大学生を紹介された。
 その時から予感はあったのだ。
 時折視線を交わし合う二人の間には、とても温かな空気が流れていた。
 まだ若くて頼りなく、小さい子どもの扱いに慣れない秀史は、颯太とどう接していいかわからずに困っていたが、優しそうな人だということは十分わかった。
 何より母が嬉しそうに笑っていることが、颯太にとってはとても重要だったのだ。

(つづく)