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 午後九時を回って、外で夕食を済ませた黒田が『常春』に帰ってくると、ちょうど自室から出てきた春永と廊下で鉢合わせた。相変わらず、頭には寝ぐせが付いたままだ。一体彼が日中何をして過ごしているのか、黒田は知らない。
「随分遅いんだな」
 春永が、華奢な指で伸びた前髪を掻きあげる。
「これでも早い方だ」
「そりゃ優秀な社畜だ」
 春永は竹細工のランプシェードがかかる薄暗い廊下を、厨房の方へ歩いていく。その背中に、黒田は呼びかけた。
「ネットで、即入居できる物件の候補をいくつか絞った」
 厨房の電気をつけ、入口の暖簾をくぐろうとした春永が振り返る。
「ただ仕事が忙しくて、内覧に行けるのは明後日になりそうだ。二、三日置いてもらえればいいと言ったのに、もう少しかかりそうだ。すまない」
「気にするな。別にこっちは何日いてくれてもかまわんぜ」
「きちんと礼はする。今日の朝食代も請求してくれていい」
「金はいらないって言っただろ。それなら颯太に肉まんでも買ってやってくれ」
 ひらひらと手を振って、春永が厨房の中へと消える。黒田は少しだけその場に佇み、ひとつ息を吐いて二階への階段をあがった。
 あてがわれた部屋に、散らかすほどの荷物はない。家具や家電などの大きなものは、レンタルのトランクルームに預けてきた。持ってきたのは、二、三日分の着替えや洗面用具だけだ。黒田は冷え切った部屋の中で着替えを済ませ、スーツをハンガーにかけた。暖房器具がないとは聞いていたものの、やはり何か温かなものが欲しくなる。
…何か、淹れてくるか」
 独りごちて厨房へ向かうと、ちょうど春永が湯を沸かそうとしているところだった。年季の入ったステンレスの薬缶が五徳に置かれて、青い炎が着火する。
「お茶か?」
 気付いた春永が、食器棚を指差した。
「どれでも好きなものを使ってくれていいぞ。俺の私物以外は和食器しかないが、勘弁してくれ。湯はもうじき沸く。緑茶でいいか?」
 自身もお茶を飲みに来たのか、春永の前にも白いマグカップと急須が置かれていた。黒田は食器棚を物色して、使えそうな湯呑を探す。元料亭というだけあって、皿や器は高級そうな色合いのものが多く、ほとんどが複数枚のセットになっている。物珍しく眺めていた黒田は、その中でひとつだけ、ぽつんと取り残されたような茶碗があることに気付いた。深い青とも藍ともつかない釉薬のかかった、大人用の艶やかな茶碗だ。客用に用意されたらしい飴色の茶碗とは、デザインも色も違う。春永の普段使いのものかと思ったが、それらしき白の茶碗は、シンク横の水切り籠にあげられたままだ。
「そりゃ兄のやつだ」
 いつの間にか黒田の隣に立った春永が、慣れた手つきで食器棚のガラス戸を開ける。
「十年前まで一緒に住んでたんだが、親父の跡を継ぐんで出ていった。ここは微妙に都心までのアクセスが悪いし、住居向きの家でもないからなぁ。…これでいいか?」
 春永は何組か揃いであった黒の湯呑を選び、黒田に手渡す。
…一緒について行かなかったのか?」
 手の中に陶器の重みと冷たさを感じながら、黒田は尋ねた。住居向きの家でないとわかっているなら、なぜそれをきっかけにここを出なかったのか。
「兄とは言っても所詮異母兄弟だ。うちの家じゃ、半分血が違えば殿様と従者くらい住む世界が違う。現に俺は、父には戦力として認められなかった。まあもともと、難しいことを考えるのは苦手だしな」
 あまりにもさらりと言って、春永は苦笑してみせる。
「ついて行かないと決めたのは俺だ。今更後悔もしてないさ」
 ガス台にかけた薬缶から勢いよく蒸気が上がり、春永が火を止めにいく。蒸気音が消えた途端、広い厨房が静けさに包まれた。
「淹れるの頼んでいいか?」
 薬缶を取り上げた春永が、黒田を振り返る。
「あ、ああ、かまわない」
 黒田が了承すると、春永は自分のマグカップと、黒田の湯呑に湯を注いで、そのまま薬缶を流し台の方へ持って行く。黒田は急須の傍にあった新しい茶葉を入れ、マグカップと湯呑の湯を急須へと注いだ。
「今日、納戸の中で見つけた。まだまだ使えそうだ」
 黒田が鶯色に色づいた茶を注いでいる間に、何やら作業を終えた春永が、バスタオルにくるまれた塊を持ってくる。
「少しはましだろ」
 そう言って押し付けられたのは、古い湯たんぽだった。タオル越しに伝わる、金属の感触。
「お茶、ありがとな」
 春永は自分のマグカップを持って、早々に厨房を後にする。
 突然腕の中に現れたぬくもりに記憶が刺激されて、黒田は胸の鈍痛を自覚した。