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 行きずりの男と寝たという事実に打ちのめされた週末を過ごし、どうにか出社した月曜日、黒田は相変わらず長嶺に引きずられるまま昼食に出かけた。
「やっぱり週の始まりは、体にいいものを食べて気合入れたいよね」
 オーガニックがどうのとうたう小洒落たカフェダイニングに連れてこられ、長嶺に勧められるまま、腹に溜まるのかどうか怪しい量のワンプレートランチとやらを注文した。
「別にいつもの定食屋でよかったんじゃないか?」
 白を基調とした店内には、数年前のヒット曲をジャズ調にアレンジしたものが流れ、通りに面した大きな窓からは明るい日射しが差し込んでいる。周りは女性客かカップルばかりで、スーツ姿の男性二人連れは、自分たち以外に見当たらない。
「あそこも美味しいけど、揚げ物が多いからね。毎日食べてると胃もたれしない?」
「俺はしない」
「膵臓強いね」
「具体的な内臓を褒められてもな」
 金曜の夜に別れてから、長嶺は黒田が何の問題もなく自宅まで帰り着いたと信じていた。黒田もまた、受け入れがたい現実を口にする勇気はなく、性質の悪い夢だと思い込もうとした。そうすることが一番手っ取り早い。なんといっても相手は男だ。子どもができるような心配もないし、同意のもとでベッドに入ったのだとすれば、責任は平等だ。
「週末何かあった?」
 レモンの香りがする水をひと口飲んで、長嶺が不意に尋ねた。無駄に容姿が整っている彼は、仕草ひとつとっても様になる。
「なんか顔色がいつもより悪いよ」
「通常運転だ」
「また仕事持って帰ったの?」
「金曜に誰かが呑みに誘わなきゃ、持って帰らずに済んだ」
 長嶺が苦笑する。いつもの軽口に遠慮はない。
「お待たせしました」
 料理を運んできた店員の声に、黒田は顔を上げた。
 忘れることのできない記憶を、揺り戻す音域。
 頭の隅で何かがチカリと光って像を結んだ。
 見開いた目に映ったのは、見覚えのある少し癖毛の長髪。
「ワンプレートランチでございます」
 そう言った店員も、黒田に目を留めて一瞬動きを止めた。
 お互いがお互いを認識した二秒半。
「美味しそうだね!」
 長嶺の声で我に返って、黒田は適当に相槌を打った。その隙に、店員はごゆっくりどうぞと、お決まりの台詞を残して去っていく。
 その日食べた昼食の味を、黒田は何ひとつ覚えていなかった。

 いくつかの仕事を家でやることにして鞄に詰め込み、黒田は終業と同時に会社を出て、再びあのカフェダイニングを訪れた。ガラス越しの店内にあの男の姿があることを確認すると、向こうもこちらに気付いて、裏口へまわれと身振りで合図する。
「別に、再会を望んでいたわけじゃないんですけど…」
 細い路地に面した裏口で、男は複雑な顔をして視線を逸らした。改めて対峙すると、背丈は同じくらいだが、黒田より幾分年下に見える。肩までの長髪は無造作に束ねられ、意外に細い首筋が覗いていた。奥二重の切れ長の目が、妙に妖艶だ。
「俺だってごめんだ。できれば記憶から消し去りたい。というか、何があったのか全く覚えてないんだ。…ただ、ちょっと…」
 ここへ来て何を言うつもりだったのだろう。自分でもよくわからなくなって、黒田は口ごもる。あの朝はとにかく現実が受け入れられず、早くその場から逃げ出そうとして、会話らしい会話もないまま、ホテル代を置いてさっさと部屋を出てしまった。今更口止めをしたかったのか、忘れろと言いたかったのか。それとも酔っていたからと弁解したかったからか。
 言い淀む黒田に、男はさらりと口にする。
「どっちが誘ったのか訊きたいんですか?」
…」
「それともどっちが上だったか? 意外と気にする人多いんですよね」
 躊躇せず飛び出してくる言葉に、黒田は苦い眼差しを向けた。
…慣れてるのか?」
「それなりには」
 外した目線の、長い睫毛まつげ
「無性に、人肌が恋しくなる時があって。そのときたまたま、いい感じに酔いつぶれたあなたがいたので、つい」
 黒田が絶句している間に、店の方から彼を呼ぶ声がする。
「すみません、俺もう行かないと」
「あ、おい」
 裏口の扉を閉めようとする彼を、黒田は呼び止める。けれど何を言えばいいかわからずに再び口ごもった。それを見て、男は唇の端に笑みを乗せた。
「安心してください」
 素早く顔を寄せて、男が囁く。
「あの夜、俺とあなたは添い寝しただけです。何もありませんでしたよ」
 目の前で閉まっていく扉を、黒田は呆然と眺めていた。