顔だけ後ろに向けた黒田は、次の瞬間立ち上がろうとした男がそのままベンチから地面に崩れ落ちるのを目撃する。
「おい!」
 黒田が慌てて戻ると、男は顔を真っ赤にして肩を震わせていた。
「大丈夫か?」
 泣いているのかと気遣って手を伸ばすと、男はその腕を掴んで呻くようにつぶやく。
…あー、ダメだ…。空きっ腹にアルコール…」
 それだけを言って、男は黒田の腕の中であっけなく意識を手放した。
 パーカー越しに伝わる彼の体温が、ただ温かかった。

 意識を失った相手を晩秋の公園に放置していくわけにもいかず、どうにか担いで自宅まで連れて帰った。自分とそう背丈の変わらない男をようやくソファに転がした時、めくれた服の隙間から背中が見えて、大きな打撲痕があることに気付いた。どこかで怪我をさせたかとよく見てみると、彼の体のあちこちに似たようなあざがあった。青紫の新しいものもあれば、黄色くなって治りかけているものもある。ホテルで朝を迎えた日にも同じような痣があっただろうかと考えたが、あの日はそれどころではなく詳細は思い出せなかった。多少気にはなったものの、深入りは不要かとそのまま寝かし、自分はいつも通りベッドで眠った。
 翌朝会社に行く時間になっても、彼はまだ頭痛がすると言ってぐずぐずしていたが、他人を家に残してはおけないと、強引に蹴り出した。鬼だなんだと言われたが、介抱しただけ感謝してもらいたい。
 しかしその日、黒田が仕事から帰ってくると、奴は玄関前でひらひらと手を振って出迎えた。
「帰れ」
「待ってたのに!?」
「金がなくても家はあるだろ」
「家はあるけど食べるものがないんですよ。一人暮らしですし。昨日の話聞いてました?」
「それなら俺に集るなという話も聞いてなかったのか?」
「今日カレーですか?」
「勝手に買い物袋をのぞき込むな」
「カレー好きです」
「そうかよかったな」
「一人で食べるより二人で食べる方が美味しいですよ」
「何を根拠に」
「じゃあタッパー持ってきたら分けてくれます?」
…」
 とうとう根負けして、その日は一緒にカレーを食べた。飲食店で働いているくせに、料理はからきしだめで、黒田から言われた通りに食器を出し入れしたり、ご飯をよそったりするこの男を、どうしたものかと思っていた。
「もう来るなよ」
 食事が終わり、自宅にあった一番大きなタッパーにカレーを詰めて、おまけに米も五合持たせて外に放り出した。あとは勝手に給料日まで食いつなげばいい。
「あ、待って黒田、さん」
 ドアを閉める直前に、男が呼び止める。名前を教えた覚えはないが、おそらく表札でも見たのだろう。
「イサキです。伊崎かなでです。俺の名前」
 自分を指差して笑う顔が、ふにゃりと歪んでいた。

(つづく)