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 あのカフェダイニングを訪れてから、二カ月がたっていた。
 何もなかったと相手が言うのであれば、本当に何もなかったのだろう。黒田はそれ以上あの夜のことを考えないようにしていた。店にも行かないようにして、念のためその周辺を歩くことも避けた。長嶺には随分文句を言われたが、相手と顔を合わせさえしなければ、記憶は徐々に薄まって遠ざかった。
 十一月も半ばになり、その頃の黒田は、会社帰りに自宅から一番近いコンビニで、腹に詰めるだけの食料と、少しのアルコールを買って帰るのが常だった。食事は休みの日にまとめて作ることもあれば、外食が続くこともある。
「千三百二十円になります」
 バーコードをスキャンしていた店員がそう言って、黒田が財布から千円札を抜き取ろうとした寸前。
「それと、肉まんひとつ」
 斜め後ろから、そんな声が飛ぶ。
「おい」
 連れでもない者に恵んでやるほど、できた人間ではない。振り向いた黒田は、その先に彼の姿を見つけて絶句した。知り合いのような顔で、保温機から肉まんを取り出す店員を眺めているのは、見覚えのある長髪の男だった。

「ごちそうさまでした」
 近くの公園で肉まんを平らげた男は、そう言ってきちんと手を合わせた。黒のパーカーにジーンズという姿は、少し寒々しい。
「助かりました。お腹空いてて」
「だからって俺にたかるな」
「たまたま見かけたのでいいかなーって。あ、ビールひと口ください」
 黒田が持っていた飲みかけのビールを、男は躊躇なくさらって喉に流し込んだ。
「三日前に財布落としちゃって、どうしようかなって思ってたところです」
 返されたビール缶を受け取って、黒田は逡巡した後にそれを再び男に押し戻した。
「やる」
「いいんですか?」
「どうせ飲みかけだ」
 黒田は、もう一本買ってあったビールを開ける。
…交番には届けたのか」
「行きました。けど繁華街のど真ん中で落としたので、望みは薄そうです」
「カードは止めたか」
「俺現金派なので、クレジットカードとか持ってなくて」
「銀行のカードは」
「どうせ残金三桁です。手間の方が面倒くさい」
「家に現金はおいてなかったのか」
「来週給料日だったので、全部財布の中です」
 まるで他人事のように語る男を、黒田はしかめ面で眺めた。聞けば聞くほど悲惨な状況だが、当の本人は飄々としている。
「友達か家族にでも金を借りることだな」
 黒田は呆れ気味に言って立ち上がる。
「それに、集る相手は他にもいるんだろう?」
 先日の様子を見る限り、彼は行きずりの男とベッドを共にすることに抵抗を持っていないようだ。それならば、きっと自分以外にも顔見知りはたくさんいるのだろう。心配してやる義理もない。
「餞別だ。もう二度と会うこともないだろうから」
 去り際、先ほど買った弁当とつまみを押し付けた。
 膝の上に乗せられた袋をきょとんと眺めていた男が、歩き出した黒田の背中に焦った様子で呼びかける。
「あ、あの!」