二、

「絶対春永の冗談だと思ったのに、客が来たって本当だったのか」
『常春』に泊めてもらった次の日の朝、出社しようとして一階に降りてきた黒田を、真夏の空のような青い上着を羽織った少年が出迎えた。小学三、四年生といったところだろうか。暖房のない朝の廊下は冷え冷えとして、半ズボンから伸びる足を見ているだけで、こちらも寒くなる。
…君は?」
 春永の弟にしては、年が離れすぎているような気もするし、顔も似ていない。
小野田おのだ颯太だ。立つ風に太郎の太で颯太」
 まるで大人のような口ぶりでそう説明し、颯太はにっと笑った。白い頬が、寒さで薄っすら赤味を帯びている。そういえば昨日、春永が玄関先で颯太がどうのと言っていたような気がするが、彼が本人なのだろう。
「ところで旦那、朝飯は食ったの?」
 黒田が昨日の記憶を手繰っているうちに、颯太が尋ねた。客を相手にする商売人のような口調だった。
「いや、もともと朝は食べないんだ」
「そんなんじゃ力でないぞ。来いよ、トーストならある」
「お、おい」
 颯太が子供らしい強引さで黒田の腕を取り、玄関とは反対方向へと連れていく。風呂場の前を通り過ぎて、突き当たった先に紺色の長い暖簾のれんがかかった入口がある。そこをくぐると、元料亭の名残がある広々とした厨房が広がっていた。いくつかの設備は撤去されたらしく、流しやガスコンロなど最低限のものだけが残っている。無機質なステンレスが基調の中で、家庭用の白い冷蔵庫と電子レンジが、所在無さげな異邦人のような顔で身を寄せ合っていた。
「おー、おはようお客さん」
 冷蔵庫の脇に強引に置かれたダイニングテーブルで、寝ぐせのついた髪のままの春永が、眠そうな目で目玉焼きを乗せたトーストをかじっていた。
…おはよう、ございます」
「旦那、すぐできるからコーヒーでも飲んで待ってろ」
「あ、いや俺は…」
 黒田が戸惑っている間に、颯太から湯気の上がるコーヒーが差し出される。
「砂糖はこれ、ミルクは牛乳しかない」
…ブラックで大丈夫だ」
 黒田は観念して、椅子を引いた。もともとコーヒーは駅前で調達しようと思っていたし、飲んでいるくらいの時間はある。
「そういえば春永、マーガリンがそろそろ切れそうだぞ」
「じゃあ買ってこなきゃなぁ」
「次はバターにしろよ。マーガリンってあんまり体に良くないんだろ?」
「そうなの?」
「とらんすなんとかがやばいらしいぜ。なんせとらんすだしな」
「なるほど全然わからん」
 春永とそんな会話を交わしながら、颯太はフライパンを火にかけ、温まるまでの間に食パンをオーブントースターに放り込み、冷蔵庫から玉子を取り出す。慣れた手つきでそれを割ると、フライパンから小気味よい音が上がった。その一連の作業を、黒田は呆気にとられて眺めていた。
「随分慣れてるな」
「弟のためにほぼ毎日作ってるからな」
 春永は、手元のカフェオレをすする。
「ただ、なんでも焼けば食えると思ってる節もある。味付けの概念が薄いんだ」
「君の身内か?」
「いや、ただの近所の子だ。時々こうやって来て、俺の世話を焼いていく」
 マグカップを手に持ったまま、春永は焼きあがったトーストに慎重な手つきで目玉焼きを乗せる颯太に目を向ける。
「雨宿りに、一時軒を貸して以来の仲だ」
…小学生、だろ?」
 黒田は疑わしく春永を見つめる。大の大人が、身内でもない小学生に世話を焼かれているとはどういうことだ。
「確かに小学生だが、あいつの中にはおっさんが住んでる。趣味は投資信託だ。その辺の大人より、よっぽど貫禄があるぜ」
 春永が愉快そうに目を細めている間に、黒田の前には目玉焼きの乗ったトーストが運ばれてくる。パンのちょうどよい焦げ目と、半熟になるよう狙いすました玉子。荒く塗られたマーガリンの香りが鼻腔をくすぐった。
「じゃあ春永、俺学校行くから!」
「おー、しっかり勉強してこい」
「旦那、ゆっくりしてけよ!」
 颯太は隅に置いてあった茶色いランドセルを背負うと、足音を立てて廊下を駆けていく。
…食べないのか?」
 目の前のトーストに手を付けられずにいる黒田に、春永が尋ねた。
「いや…」
 黒田は思いがけず動揺する自分を律して、膝の上の拳を握る。
「礼を、言いそびれた」
 吐息を漏らして、春永が笑った。
「食えばそれが何よりの礼になる」
「そうか」
「ああ」
 齧りついたトーストの香ばしさが、黒田の目玉の底に苦い涙を呼んだ。