その元料亭兼宿の屋号は『常春とこはる』というらしい。
 客を泊めなくなって久しいとはいえ、屋敷の中は比較的美しく保たれていた。年季の入った板張りの廊下も色が剥げているところはほとんどなく、柱もよく磨かれている。水回りの設備は古いが、かびなどはなく小綺麗に掃除されていた。一階には襖で隔てられた数室の和室があり、外からは見えない中庭を囲むように配置されている。
「古い上に、営業してないからな、部屋にはテレビも冷蔵庫もない。トイレと風呂は一階だ。風呂は三つあるが、今使ってるのはひのきのところだけ。あとで場所を教える」
『常春』の主人は、春永はるながだと名乗った。それが苗字なのか名前なのかはわからないが、黒田はそれ以上聞くことはしなかった。寝泊まりできる場所が確保できれば、それでいい。
「料亭なのに、風呂が三つもあるのか」
「まあ、単に飯を食うだけの場所じゃなかったようだからなぁ。時間を区切って、貸し切りにしてたみたいだぜ。俺もよくは知らんが」
 飄々ひょうひょうと返事をして、春永は階段を上っていく。
「掃除はしてるが、俺もマメな性質たちじゃないんで綺麗とは言い難い。布団だけは昨日干したばかりのがあってよかったな。随分数は減らしたが、それでも腐るほどあるんでたまに日干ししてるんだ。ただ、悪いが暖房器具はない。ああ、それから飯は自分で何とかしてくれ。台所は勝手に使ってくれていい。茶ぐらいは自由に呑んでいいぜ」
 二階に到着してすぐ右側にある部屋の襖を開け、春永は一階から運んできた布団を下ろした。六畳の和室は窓際に古い文机があるだけで、黄色く色あせた畳が薄い日除けの隙間から漏れる陽に光っている。風を通してあるのか、あまり埃っぽい匂いはしなかった。
「一階でもいいが、ここが一番見晴らしがいい」
 春永の言う通り、日除けを外して窓を開けると、中庭はおろか、小高い場所にあるおかげで市内が一望できた。車が入って来られない路地にあるためか、周囲は驚くほど静かだ。
「よく眠れそうだし、仕事がはかどりそうだ」
 ボストンバッグを置いて、黒田は素直な感想を漏らす。仕事を持ち帰ることは常なので、こういう環境はありがたい。
「仕事って、あんた会社員だろ? ここでも仕事するのか?」
 春永が呆れたように黒田に目を向けた。
「これでも社畜と言われるのには慣れてるんだ」
「そうかいそうかい、じゃあごゆっくりどうぞ。もてなしはできない代わりに、金はいらないから、気兼ねしなくていい。俺は一階の部屋にいる。何かあったら呼んでくれ」
 ひらひらと手を振って、春永は部屋を出ていく。その背中に、黒田は呼びかけた。
「どうして泊めてくれる気になったんだ?」
 営業していないというので、てっきり断られると思っていた。その上金までいらないと言われてしまうと、何か裏があるのか、という気分になる。
「家がないって君が言ったんだろ。生憎あいにくうちには盗まれて困るようなものもないし、何より君の身なりはまともで、悪い奴じゃなさそうだ」
「警戒心がないにもほどがある」
「泊めてもらってその言い草とは驚くね」
 苦笑する春永から気まずく目線を逸らして、黒田は言葉を探した。突っかかってしまうのは、春永の本心が読めないからか。それとも、自分の本当の事情を明かしていない後ろめたさか。
…すまない、助かる」
 結局そう口にした黒田に、春永は柔らかな微笑みを浮かべただけで、何も訊かずに部屋を出ていった。
 階段を下りていく音が遠ざかると、慣れない静寂が辺りを包んだ。昨日まで住んでいたマンションは大通り沿いで、窓を閉めていても車の走行音が聞こえていたため、なんとなく落ち着かない。
…仕事、するか」
 黒田は、ボストンバッグから使い慣れたノートパソコンを取り出した。ついでに癖のようにスマートホンを確認したが、天気予報以外に新たな通知はない。何を期待しているのだと自嘲気味に息をついて、黒田はざらりとした砂壁に背を預けた。

 ―どうせまたあれでしょ? 仕事と私とどっちが大事なのよ! っていうやつ。

 二年前のあの日、同僚の長嶺ながみねに言われた台詞が不意に脳裏をよぎった。
 恋人から別れを切り出されるときは、いつも同じ台詞だ。現にその時も、聞いたことのある決まり文句を投げつけられて別れたばかりだった。
 社内でもよく話す長嶺は、傷心の黒田を無理矢理飲みに誘ったあげく、酔いつぶす勢いで酒を飲ませ、結局その一部始終をすべて吐かせた。
「最近、いつにも増して社畜度に磨きがかかってるから、何かあったんだろうなとは思ってたけど、予想通りだったな」
「人の傷口をえぐって楽しいか…」
「抉ってないし楽しくないよ。ただ、痛みと会計は分かち合うものだよね」
「おごる気もないことだけはよくわかった」
 長嶺は悪い奴ではない。知り合いも多く社交的で、容姿もいいため女にも困っていない。けれど完璧主義と凝り性という厄介な性質のせいで、長続きしないのは奴も同じだ。
 酔うと泣き上戸になる黒田を散々嘆かせた後で、長嶺は送っていこうかと申し出たが、お前の世話になるほどじゃないと言って突っぱねた。しかし今思えば、あの時素直に送ってもらえばよかったのだ。そうすれば、あんなことは起こらなかった。
 長嶺と別れた五時間後、ひどい頭痛で目覚めた黒田は、見慣れない天井をしばらく見上げていた。布団も枕も馴染みがなく、何より服を着ていない。そして隣には、同じく真っ裸の男がいた。
 よりによって、男だった。
 けれど今思えば、そんなことは些末事だったのかもしれない。
 隣にいたのがあいつだった。
 ただそれだけが、歴然とした事実だった。