極楽に至る忌門

極楽に至る忌門

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 しかし、よく考えればあり得ない。花柄の袋は両手を目いっぱい広げたくらいの大きさをしていて、その下半分に何かじゃらじゃらと鳴るものが詰まっている。歯だったら、一体何本あればいいのか。舌で歯を嘗め回して数を数える。二十八本あった。子供だからこれより少し少ないくらいだろう。どちらにせよ、数十本如きでは袋を半分も埋められない。ということは、これは麗美の兄の乳歯ではない。
「人をからかうなよ。ヒト一人の乳歯がそんなにあるわけないだろ」
「んー。そんなことないよぉ。私がそうだって思えばいいだけなの。私はこれをお兄ちゃんの歯だと思ってるんだから、そうなんだよぉ」
 何か変なことを言われている。そんなことを言ったら、これはウニだと言い張れば、プリンもウニであるということになる。それでも何も言わない方が良い。わざわざ揉めて、この話を長々と続けることは避けたい。
 麗美は不思議な圧力がる。目は大きくもないのに妙に黒々としていて、鼻にかかったような甘えた声は子どもっぽいのに長く生きてきた女性のようなことを言う。テキトウに相手をすることができない。真剣に話を聞かなくてはいけないと感じさせられる。
「ねえ、もういいかな? 次の試練の話」
 僕は黙って頷いた。
 麗美は袋から白いものを取り出す。小さくて、確かに歯のように見える。
「これをこうやって、高い所に向かって投げるの」
 白いものは麗美の手を離れ、潰れた紅茶専門店の看板の上に乗ってしまう。
「えっ、いいの?! 歯…」
「いいのよぉ。沢山あるんだモン」
 麗美は笑顔で袋を振った。
「それでね、ぅぁーんぷゅい様、お願いしますって言うの」
「えっ? なんて?」
「だから、ぅあーくゅヴぃ様」
 何度聞き返してもその度に奇妙な響きだけが印象に残って、言葉を正しく受け取っているとは思えない。
「ごめん、本当に聞き取れない、なんて言ったの?」
麗美は呆れたように、
「んー。もういいよ、デンタータで」
「デンタータ?」
「そう。それなら、覚えられるでしょ。デンタータ様、お願いしますって言ってねぇ」
「まだ、やるって決めたわけじゃ…」
「そうだよねぇ。倉本さんとおまわりさんの相性が悪ければ、名前は消えちゃうもんねぇ」
「倉本さん⁉ 今、倉本さんって言った⁉」
 僕は驚きの余り大声を上げた。麗美はうるさいなぁとでも言いたげに顔をしかめる。
「なに? 倉本さんって言ったらなんなの? ぅあーりぅきい様に訊いたのよ。別にいいでしょ」
「そんな…」
「さあ、行くよぉ」
 僕が連れて行ってやる立場なのに、麗美は先導してエレベーターまで進んで行く。僕も聞きたいことは山のようにあるのに、麗美に付き従うようにして歩いていくしかない。操られているようだった。
 エレベーターの階数ボタンの下にある鍵穴に鍵を差し込むと、普通の客は押せないようになっているRが点灯する。それを押すと、きゃはは、とわざとらしく麗美がはしゃいだような声を出した。
 屋上の床は白いタイルを貼られているが、長く放置されているから、隙間から雑草が生えている。ときどき除草剤を撒いたりするのだが、植物の生命力は強く、またどこからともなく生えて来る。
 ぽつんと置かれ、野晒のざらしになったベンチは錆びていて、いかにも汚らしい。
 麗美はたかたかと走って行って、
「んー。おまわりさん、手伝ってぇ!」
 と言った。
「何を?」
「んー。ベンチを壁につけるのよぉ」
 麗美は、ベンチの上に乗って、屋上にある貯水槽の外側の、高い所に名前を書くのだと言った。僕はこれで満足するなら、と思ってベンチを引き摺り近付けてやった。
「ありがとぉ!」
 麗美は手提げ鞄から油性ペンを取り出し、少女らしい丸っこい字で『原西健人』と書いた。
「おまわりさんもやってぇ」
「ああ…」
 僕も小学生から全く成長していない汚い字で、『倉本かおり』と書いた。
「じゃあ、帰ろぉ」
 しばらくじっと自分の文字を見ていると、麗美が声をかけてくる。
 うん、と返事しながら、恐らく明日も麗美に付き合わなければいけないのだろうなと思う。

(つづく)
※第二回は、明日8月10日(土)正午公開予定です。