食べると死ぬ花

食べると死ぬ花

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 自転車で職場に向かう時、僕は必ず途中にあるコンビニに寄る。それで毎回、おにぎりを二つ買う。ツナマヨと、さけわかめ。そして、レジに持って行く。
 レジにはいつも笑顔の倉本さんがいる。
 五百円玉を出すと、笑顔でおつりを握らせてくれる。両手で、包み込むように。
 それだけで好きになったわけではない。倉本さんは、小中高と同級生だった。今と同じで、少し地味だけれど、えくぼが可愛くて、ひそかに人気のある女子だった。
 彼女は高校二年生の秋、突然学校を辞めた。噂では、数学教師の森と付き合って、妊娠したかららしい。僕は信じたくなかったけれど、同時期に森も辞職したから、恐らく本当だと思う。
 今も倉本さんは倉本さんのままだ。校区からかなり離れたコンビニで働いているのは、僕と同じで、もう自分を知っている人間と関わり合いになりたくないからなのかもしれない。
 倉本さんが僕に笑顔を向けてくれるのは、僕が誰か分かっていないからだと思う。忘れられているのも当然だけれど少し悲しい。それでも、もし僕が元同級生だと分かってしまったらこの笑顔を見られなくなるかもしれないから、仕方ないと思っている。
 僕は確かに、倉本さんが好きだ。どうこうなりたいわけではないけれど、ずっと笑顔でいて欲しいと思っている。
「いないから。ていうか、迷子? お母さんかお父さんは?」
「んー。なんでウソつくのかなぁ。歯を取られるよぉ」
「歯?」
「そうだよぉ、歯」
 麗美は口を開けて中を指さした。上はきれいに揃っているが、下の前歯は少し重なっている。
「それを言うなら、舌だろ」
 麗美は驚いたように目を見開いて、
「んー。おまわりさんの家では、舌なの!」
「いやふつうは舌でしょ…」
 僕の声は語尾が消えかかっている。こんな問答にこれ以上付き合うべきではないのだ。
 もしかして、寂しい子なのかもしれない。小学生の時、クラスメイトに、やたらと嘘ばかり吐く女の子がいた。幽霊が見えるとか、父親が社長で毎日運転手に送り迎えをされているとか、人気アイドルと友達だとか。その子は本当のところ、両親が離婚していて、母親はホステスをしていて、古いアパートに一人で帰っていた。誰も信じていなかったけれど、可哀想だから、直接指摘する人もいなかった。しかし、そんな話を聞かされても面白くないから、孤立していた。同級生に相手にされなくなったその子は、大人をターゲットにするようになった。大人は、小さい子供を無下にはできず、話に付き合ってくれる人も多かったからだ。
 麗美も、そういう子なのだ、と僕は考えた。
 僕は、大人と呼ばれると居心地が悪い。年齢はすでに大人かもしれないが、自分がまともな、大人と呼ばれるにふさわしい人間とはとても思えないのだ。だから、こういう女の子の相手は、本物の大人にしてもらうのがいい。
「今からおまじないをするんだけどさぁ、一緒にやりたいなぁと思って」
 僕が無視していても、麗美は話し続ける。
「高い所に名前を書かなきゃいけないんだけどぉ、ここの屋上スペースって今使えないでしょ? おまわりさんは入れるんじゃないかなぁって思ってぇ」
 屋上には椅子とベンチがあって、人工芝が敷かれている。夏は、ビアガーデンとして使われていたこともあった。人が来なくなり、飲食店が次々と撤退した今では当然開催されることはない。屋上で遊んでいた幼児が転落し、大怪我を負ったことがトドメになって、屋上スペースは今や立ち入り禁止だ。確かに僕は点検のため入ることもあるが、誰も入らないのだから何も変化などあるわけがなく、テキトウにぐるっと見て終わりだ。
 こんなことを説明するわけもなく、僕は黙っていた。
「黙っていたら終わると思ってるぅ?」
 思わず目線を下に向ける。喉から「ワア」と情けない声が漏れた。
 麗美が鼻が付くような距離で、瞬きもせず僕を見上げていた。
「黙っていても終わらないよぉ?」
 麗美は口元に笑みを張り付けている。子供とは思えない迫力があった。いや、子供だからこそ、不気味な圧力を感じたのかもしれない。
「んー。私が今大声出したらどうなるかなぁ」
 パンツ見せろって言われたって騒いじゃおうかな、と麗美は言った。
 僕の負けだった。
「高い所で、何をするんだ」
「まず、相性占いをするのよぉ」
「相性占い?」
「んー。人と人って、相性なんでしょ? 相性が悪かったら、いくら好きでも可能性がないよぉ」
「そうか…」
 僕は完全に気圧けおされていた。情けないことに、小学生の女児に。
「相性占いって、でも、高い所でやることか?」
「その人のことが好きだっていう思いを込めて、名前を書くのぉ。できるだけ、高い所に。相性が良ければ、一晩経っても消えない。それがぁ、最初の試練」
 僕は少し懐かしい気持ちとともに「試練」という言葉を聞いた。「風雲! たけし城」のミニゲームが「試練」という名前だった。この子は賢しらに見えてもまだ子供なのだと思った。
「試練か。それをクリアすると、第二の試練に行くってわけ?」
「んー。おまわりさん、人間の一番大事なところ知ってるぅ?」
 麗美は僕の言葉を無視してそんなことを聞いてくる。母親が伯母と話すとき、本当に驚くようなスピードで話が切り替わる。女性は、小さい頃からそういうものなのかもしれない。
「やっぱり心臓かな、それか、脳かも」
「歯だよぉ」
「は?」
「それはダジャレのはぁ?」
「ちがうよ」
「んー。だからね、一番大事なのは、歯なの。歯を持っておくの。私は持ってる。お兄ちゃんの抜けた乳歯」
 麗美は手提げ鞄の取っ手にくくりつけてある花柄の袋を手に取って、少し振った。じゃらじゃらと音がする。
 脳が不快なイメージで埋め尽くされる。びっしりと詰まった小さな歯と歯が擦り合わされ、音を立てる。