『歩き娘 シリア・2013年』サマル・ヤズベク著

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歩き娘

『歩き娘』

著者
サマル・ヤズベク [著]/柳谷 あゆみ [訳]
出版社
白水社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784560093559
発売日
2024/06/10
価格
3,300円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『歩き娘 シリア・2013年』サマル・ヤズベク著

[レビュアー] 遠藤乾(国際政治学者・東京大教授)

シリア内戦 少女の心象

 民主化の波「アラブの春」は、各地で政権をなぎ倒し、2011年にはシリアに到達した。同年に始まった血なまぐさい内戦で、全人口の半数以上が国内外で避難民となった。

 シリアに残り、アサド独裁政権と戦った人たちがいる。自由シリア軍によるその反乱は、残虐な方法でほぼ鎮圧された。

 そうした戦禍を理解しようとする。そうすると、社会科学の言葉が助けになり、同時に妨げる。アサド大統領が自国民を空爆や化学兵器で攻撃したことを我々は知っている。その際、彼がプーチン露大統領の力を借りた事実にも触れるだろう。けれど、爆弾や化学物質のもとで、人びとが現にどのような状況に置かれたのか、持っているイメージは実に希薄で貧困だ。

 シリア出身の作家ヤズベクの小説は、主人公リーマーの心象風景を、レースを編むように繊細に描き、その穴を埋めてくれる。

 リーマーは言語障害をもつものの、『クルアーン』を詠み、物を語り、絵を描く才能豊かな十代の少女。幼いころから歩く衝動を抑えられず束縛される。それでも、内戦が始まり、国内を逃げ惑うなか、自由に歩こうとする。しかし、そのたびに検問や避難先で母や兄を失う。思いを寄せるハサンのもとには、束縛を解かれても留(とど)まろうと決意するが、彼もまたいなくなる。

 そうして誰もいなくなった。死体と毒ガス、飢えと渇きが支配する。生と死を行き来し、やがて大好きな色が失(う)せる。しかしそこは、自分がランプになり、海空へ旅し、星をこしらえる不思議な世界。母やハサン、そして彼女の才能を見(み)出(いだ)したスアード女史が現れ、色が蘇(よみがえ)る。

 アラビア語の原文から柳谷あゆみによる美しい日本語の訳文が紡がれる。その解説によれば、頭でなく足に精神があるという主人公の自己理解は、自由を暗示する。アラビア語の「頭」は、「大統領」をも意味する。『歩き娘』は、歩くことで「頭」に従わない。(白水社、3300円)

読売新聞
2024年10月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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