作家・角幡唯介「読みとおす価値は絶対にある」…父は過酷な労働で絶命、母は室で燃やされた少年の回顧録

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アウシュヴィッツの小さな厩番

『アウシュヴィッツの小さな厩番』

著者
ヘンリー・オースター [著]/デクスター・フォード [著]/大沢 章子 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学、その他
ISBN
9784105074319
発売日
2024/08/09
価格
2,310円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

老人となったユダヤ人少年が生き延び、発した「言葉」の意味

[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)

 少年時代にアウシュヴィッツを生き抜いたユダヤ人の回想録である。

 ドイツの一市民としての平穏な生活は、ナチスが政権を掌握した途端に暗転する。父はゲットーでの過酷な労働の末に絶命し、母は強制収容所での選別でガス室に送られて燃やされた。同じように理由もなく目の前で人々が狩られ、運ばれ、選別され、押し込められ、最後の一滴まで命を搾り取られ、殺されてゆく。

 このような地獄で少年が生きのこったのは、瞬間的に機転をはたらかせて決断する力が彼にあったからだが、でも同じぐらい運命というものも作用したようだ。どんな人にも生きてきた履歴があり、そこに命の尊厳が宿る。だが、そんなことはまったく無関係に、目の前に偶然いたナチ党員の気まぐれや出来心により、一方は生の側にのこり、一方は死の側に転がり落ちてゆくのである。人の命が文字通り虫ケラのように扱われていることに怖気がする。

 ただ語られるのは地獄ばかりではなく、ここには希望もある。

 人格形成期にサバイバルだけが至上命題な時間を過ごした少年であったが、戦後は米国にわたり家族にめぐまれ誠実で平穏な日々をすごした。それがまず第一の希望だ。でも何よりの希望は、このような悪をくりかえさないために人類は何をなすべきか、彼がのこしたメッセージの中にある。それは、ひとつには起きたことから目をそらさず、想像を絶する出来事がなぜ現実になったのかを理解しようとする態度、そしてもうひとつは寛容の精神だ。

 最後に老人となった少年は、二度と訪れることはないと心に決めていたドイツの地を訪問し、スピーチをおこなう。その言葉には圧倒的な力があり、心を揺さぶられる。なぜ彼はこのような言葉を発しえたのか。彼が経験した収容所生活は読むのもつらいほどなのだが、最後の言葉の意味を理解するためにも読みとおす価値は絶対にある。

新潮社 週刊新潮
2024年10月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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