読者を灼熱地獄に誘うガイドマップか? 少女の青春を綴った学級通信か?――鬼才が遺した幻の傑作、初単行本化

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羅刹国通信

『羅刹国通信』

著者
津原 泰水 [著]
出版社
東京創元社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784488029012
発売日
2024/04/30
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

読者を灼熱地獄に誘うガイドマップか? 少女の青春を綴った学級通信か?――鬼才が遺した幻の傑作、初単行本化

[レビュアー] 南木義隆(小説家)

 人を殺すとは、一体いかなるものなのか? どこまでが人を殺したと定義できるのだろう? 人間の根源的な暴力と罪悪感情への洞察を元に、眠りに安らぎを見出すことを許さない罪人の精神的荒野を見せつけるのが『羅刹国通信』という小説です。

 組み入った、含みのある題名。仮に題名が『羅刹国』だったならば、それはどこか遥か遠いニュアンスで、僕は今ここにいる世界と、小説とで一線を引いて、物語から距離を取れたでしょう。安住な世界から眺める灼熱地獄としての読書。けれどもこれは「通信」。あなたが人を殺せば、いつでもここに入っていけるというガイドマップとでも言わんばかりに。

 この物語では人殺しには人殺しにだけ見える角が生え、人殺しだけが夜に見る夢で灼熱の荒野を歩かされます。人殺しは「羅」か「刹」のいずれかで、荒野ではサバイブしつつ互いに闘争を続ける。どちらかの勝利は悪意か恐怖かのいずれかをもたらす。それが羅刹国……ですが、これはほんの冒頭だけの概略に過ぎません。

 では、冒頭の問いかけについて。劇中で展開されるのは、殺意を持って崖から相手の背中を押した、相手からの攻撃に護身具を使った、死んでほしいと祈った、助けようと思ったけれど助けられなかった……等々。かなりグラデーションに差がある。主人公が冒頭で回想する「崖から突き落とす」はともかく、それ以降どこまでが殺人で、そうではないかはその時、その場合、状況や当事者の関係性によって受け取られ方はまったく違うでしょう。

 攻撃に対する護身は正当防衛とみなされるか否かという論点があるし、祈りは内心の自由の範疇と言えるだろうし、助けようと思ったが助けられなかったに至ってはこれを殺人と糾弾する人はほぼいないでしょう。

 いえ、主人公の行為すら、小学六年生のときに行われたものであり、本作の初出段階でも、単行本として出版された二〇二四年現在でも、日本の刑法的には十四歳未満の青少年は刑事責任能力がないため罰しないという規定があります。突き落とした対象である伯父の、主人公の家庭における乱暴を踏まえれば、情状酌量の余地もあるでしょう。このように、劇中の殺人はほぼどれも人間社会の倫理や法律に照らせば極めて微妙なあわいに立っていると言えます。

 ですが、いずれの行為もそれを行った、あるいは行わなかった本人にとってはどうでしょうか? 仮に死に直接的に関わっていなかったとしても、身近な人間の死とは強烈なものです。

 死という生命が起こし得る最大にして一回限りの激変を方位磁石に、この物語は「共通認識を抱いているつもりである、世界の成り立ちは本当に同じものなのか?」と僕たちに揺さぶりをかけてくるのです。

 殺人に対する倫理的解釈の違いだけではありません。本作では、登場人物たちの言動には齟齬が生まれ、互いが互いを疑問視します。主人公が「死んでいる」と解釈した人物がしばしば生きており、「人を殺した」=「羅刹国」の住人であるはずの人物が、事実を紐解けば法的にも人道的にもとても殺人の責任を問えない状況や、またあるいはそもそも「誰も死んでいない」というパターンもあります。

 死者は生者と混同されるし、誰も殺していなければ罪に問われてもいない人殺しという逆説に逆説を極めたような人物をも現れる。

 人間の耳は聞きたいものを聞き、見たいと思うものを見る。五感は極めて繊細で、時に無意識に沈んでいた深い記憶、無意識をも掘り起こしますが、同時に人間が人間である以上、決して精密機械たり得ません。

 津原作品において、個々人の感覚や認識について、常に誰のどれが正しいかという答えはほとんどの場合、提示されません。

 人間はなにかと勘違いや思い違いをする。人々の会話は他の一般的な現代小説のようにするりと進まず、認識は共有されず、明らかな違和感を残し、時に読み手を不自然なまでにつっかえさせる。

 そしてそれは後に繋がる伏線でもなんでもなく、純粋な違和感として解決されないまま置かれることもまた多い。ですが、そもそも我々の日常の会話は、毎回それほどするりといっているでしょうか? 卑近な例ではありますが、外食に行ってメニューを自分が言い間違えて訂正したり、店員が聞き違えて訂正した経験がないという人の方が少ないのではないでしょうか。

 流麗な幻想描写を随所に展開しながら、登場人物のやりとりは生々しくつっかえつっかえという二軸を展開させる筆捌きにおいて、津原泰水の右に出る書き手はいないだろうと僕は考えています。

 そうしてこの絶妙な違和感に認識を揺るがされながら、精緻な描写でリアルに描かれた地図を辿っていくと、読者は出口の見えない深い迷宮に降りていくこととなります。けれどもそれは必ずしも読者を混乱させるだけの暗黒の地平ではありません。その迷宮の先にふとした安らぎの場所、心地よさ、懐かしさ、癒しすら感じさせることもある。

 中盤で、自殺した女子高校生と性愛関係を持っていた女性教師が登場した部分です。最初は描写にやや時代がかったものを感じたのですが、後に明かされる彼女が胸に抱えた「死んだ少女」のために考え行っていたことは社会的正義とは言い切れないものの、僕には愛情に基づく人間の破格の行動力と勇気であるように写ります。序盤から果てしない閉塞感を覚えていた矢先に、感情を揺り動かされた。

 その後に展開される、フラフラと頼りなげだった主人公の兄が窮地において等身大の責任感を見せたり、それまで印象の薄かった父が混乱状況において良くも悪くも人間くさい一面を見せたり、そのどちらにも主人公が意外に思いつつ好意的な感情を抱く展開は、ちょっとしたホームドラマチックですらあります。

 それを経て主人公もまた、思春期的な感情に折り合いをつけて、大人への道を歩んでいきます。作品発表当時、世を騒がせた不況と大企業の施策によって、自明のものとされていた主人公の人生設計は変更することを余儀なくされるのですが、これまであらゆる死と狂気と相対していた経験が手伝ってか、否か、なんとも現実的で、オフビートな着地をしてみせる。

 その意外な決着にこそ、幻想小説かつ青春小説である本作の妙味があります。死、殺人、狂気、悪夢、恐怖、悪意、思春期、ボーイ・ミーツ・ガール、ファミリー・ヒストリー、それほど長くない長編のなかに詰め込まれた多様かつ濃い味付けの要素がわかりやすく収斂するのではなく、意外な決着を見せる読後感。

 そう思えば「羅刹国」は一見して禍々しいですが、「○○通信」という響きには、どこか学校で配られるプリントを思わせるような郷愁的な響きを感じなくもない。

 そう、こんなにぶっ飛んでイルなのに、『羅刹国通信』は一人の少女の成長を描いた青春小説なのです。津原泰水という小説家は深く深く闇に近づきながら、闇に耽溺して留まることを自分に許さず、本質的に人間の凛とした一面を見出し、声にならない蛮勇や望郷を聞く耳を澄ましていた姿勢を伺えるように思えてなりません。

 最後に『羅刹国通信』の外部的な魅力について書きたいと思います。津原泰水先生は既に物故者であり、関係者からエピローグを書き足して出版される予定だったと僕は聞きました。存命で仕上げていたなら、そのエピローグによってまったく違った色合いになった可能性も高いのではないでしょうか。また、氏の尋常ではない、文章は当然のことデザインといった本としてのトータルバランスにまで及ぶ完璧主義を思えば、これでいくと言ったが更に細かく手を入れていた可能性もゼロではないと夢想してしまうのも、読者として無理からぬことではないでしょうか。

 しかし、これは今後発表される津原泰水死後の全作に言えることですが、そのように作者の手が入り切っていない部分の可能性について、ただ悲しむのではなく、僕は小説として一つの魅力を見出したいのです。ましてや時期的に若書きで長らく書籍化されていなかった本作ともあれば尚更。

 津原先生はこよなく音楽、特にロックミュージックを愛していました。ロックの世界では演者の死によって断ち切られたがゆえに、最後にはマスタリング以上の手は入れられずリリースされる作品というのが少なくありません。もちろん長命ですべての作品を満足いく完成形として発表できるならそれが最上であることは当然ですが、荒削りであることが奇妙な魅力に繋がることもある。

 津原先生本人も強くリスペクトを表明していたイギリスのロックスター、デヴィッド・ボウイ(ちなみに数少ない来日公演に足を運んでいて、ネット上には昔そのライブ・レポートがありました)には、キャリア中後期に伝説化した未発表作『トイ』というアルバムがあり、ネットの流出音源などで一部流布していたものが、死後に完全な形で発表されました。

 ですが、実際に彼が亡くなった年から十五年以上前のアルバムということで「本人が改めてこの時代に『トイ』をリリースするとなるとこのように手を入れていたのではないか」というifで盛り上がるのもロックリスナーの常です。あるいは完璧な、非のつけどころのない満場一致の最高傑作より、ファンとしての「語りがい」があるのはそんな作品だったりします。

 完全な新作は望めませんが、今後も津原泰水作品は数々の出版予定があります。もちろん純粋に未読作として読むのも楽しい。けれど、その後には伝説とそれに伴うifを併せて語り合いたいという気持ちが僕にはあります。

『羅刹国通信』のエピローグが書かれていたら、どんなものだと思う?

 もしもあなたが僕と会う機会があれば、こんな風に話しかけてくれると嬉しいです。きっとそれぞれまったく違うものを想像しているでしょう。

アップルシード・エージェンシー
2024年10月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

アップルシード・エージェンシー

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