「いまある『普通』は、いつまで叶えられるの」ろうの親が、耳の聴こえる子どものために願ったこととは?

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「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて

『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』

著者
五十嵐 大 [著]
出版社
紀伊國屋書店
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784314012089
発売日
2024/08/02
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

響かない声と、響く声のはざまで

[レビュアー] 齋藤陽道(写真家)

 耳が聴こえない、もしくは聴こえにくい親の元で育った子どもについて考えたことがあるだろうか。そうした子どものことを「コーダ(CODA)」と呼ぶことは知っているだろうか。

 映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」で知ったという人は、掬い上げた水が指の隙間から零れ落ちていくような気持ちになっただろう。

 この映画の原作者・五十嵐大さんが、自身の体験をエッセイとして綴った一冊『「コーダ」のぼくが見る世界』(紀伊國屋書店)では、ろう者とも聴者とも違うアイデンティティに揺れ動く複雑な心情を語りつつ、親と子の両面から社会的な問題にアプローチしている。

 このエッセイを読み、「掛け値なしにありがたい」と綴ったのは、ろう者であり、現在3人のコーダを育てている写真家の齋藤陽道さんだ。

 その齋藤さんがささやかな願いと希望を込めた書評を紹介する。

 ***

『「コーダ」のぼくが見る世界』著者の五十嵐大さんは、タイトルにも掲げられている「コーダ」だ。CODA。「聴こえない、または聴こえにくい親のもとで育つ、聴こえる子ども」のことをいう。

 風が吹くように、ごく自然なものとして手指から紡がれる言葉で満ちた、うるさくて静かな世界で五十嵐さんは育った。

 幼い頃から、五十嵐さんは両親の通訳もしながら生きてきた。それは、彼にとってかけがえのない経験であり、アイデンティティの根幹をなすものだった。まさに、この本が、「ろう文化」と「聴文化」の橋渡しを担ってくれているように。

 同時に、それは彼を孤独に追いやり、いち早く大人にさせるものでもあった。聴こえる世界と聴こえない世界、そのどちらにも完全には属せないという疎外感。容易に言葉にできない両親への想いと、そこから生まれる葛藤。

 幼年期のコーダにとって、親が聴こえないことは当たり前で普通のことである。しかし、その「普通」が引き裂かれるのは、他者からのまなざしによってだという。

〈「お前んちの母ちゃん、喋り方おかしくない?」

 たしかに、他の子の母親はみな、はっきりと喋ることができる。手話を使わなくても、口話だけでコミュニケーションが取れる。でも、ぼくの母はそうではない。

 そして、そんな母はおかしいと評されてしまうのだ。

 このときから、ぼくは母を、そして父のことも、「ふつうではない」と認識するようになっていった。〉(『「コーダ」のぼくが見る世界』より引用)

 私自身、「ろう者」であり、親として三人のコーダを育てている真っ最中なので、他ならぬコーダ当事者による言葉の数々には、立ち止まって考えざるをえなかった。子どもたちにとって、いまある「普通」は、いつまで叶えられるものなのだろう。

 しかし同時に、次のようにも思うのである。

「聴(聞)こえない」や「音がない」といったネガティブな意味合いを持つ言葉をあてがうと、その人の人生は苦労に満ちた弱々しいものであるかのように映るだろう。

 たとえ善意からくるものであっても、当事者本人に尋ねず述べる意見は「偏見」である。偏った他者からのまなざしによって、「聴こえない親を助けていて、頑張ってて、偉い」と親との関係を一方的に評価されるとき、コーダは傷つき、戸惑いを覚えるという。

 そんな世間に苦しめられたコーダの先輩たちの話も交えながら、五十嵐さんは本書において「ろう者」を、聴者に助けられるだけの弱者ではなく、日本語とは全く異なる文法を持った日本手話を言語として生きる者としての姿が立ち上がるように書いている。

 そのように定義するとき、自分の力で人生を生き抜いていこうとする、ひとりの人間として「ろう者」の姿が見えてはこないだろうか。

 悩み、喜び、愛を抱えて生きる存在として、すべての人間と地続きとなる「ろう者」の姿を、本書は多様な例から浮かび上がらせていく。こうして「ろう者」のイメージが「聴こえなくたって、なんでもできる」に変わるとき、コーダの印象もおのずと変わっていくだろう。

 遠い回り道のようにも思える。しかし、それは偏った見方の裏側に隠れたコーダの想いや困難を、言葉にして浮かび上がらせるための最短の道でもある。そのために五十嵐さんは本書を書き上げたのだと言えるだろう。

 社会からの無理解や差別に直面しながらも、それを乗り越えるための手段を模索する自らの姿もあまさず描いているのは、かつての幼い五十嵐さんのように自分の立ち位置が見えず戸惑っている若きコーダをも救いたいという揺るぎない決意によるものであろう。

 本書の中で、五十嵐さんは「聴こえない人になりたい」と夢見たことを語る。母語としての手話、感動ポルノとして扱われがちな手話歌、そして自身がどこにも属さないような感覚――様々な悩みが綴られている。

『「コーダ」のぼくが見る世界』は、単なるエッセイ集ではない。視覚言語である手話の特性上、なかなか日本語として共有されにくい「聴こえない世界」を、誰もが読みやすい言葉として明るく照らしだしている。聴こえない世界に生きる私にとっても、自分の世界を客観視できる稀な機会となった。コーダの立場で書かれた書籍がごく限られていた数年前のことを思うと、こうした一冊が世の中に存在するということが、掛け値なしにありがたい。

〈だからこそ、繰り返したい。聴こえる世界と聴こえない世界を結ぶのは、つながりたいと思う気持ちなのだと。〉(『「コーダ」のぼくが見る世界』より引用)

 コーダの親として、彼らが少しでも長く「子ども」でいられるように、と願っている私は、何度もこの本を読み返すだろう。厳しい現実を見つめながらも、最終的に両親のことを愛してやまない、五十嵐さんの姿を希望として。

紀伊國屋書店 scripta
scripta no.73 autumn 2024 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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