『愛と忘却の日々』
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傷つけたくない優しさと傷つきたくない臆病が生む傍観
[レビュアー] 古賀史健(ライター)
子どものころに一度だけ、クッキーを焼いたことがある。親戚の家で、材料はすべて叔母が用意してくれた。ぼくら子どもたちは粉をこね、好きなかたちに整え、オーブンで焼くだけ。叔母の型抜きした丸いクッキーは、どれもきれいに焼けた。ぼくがつくったキン肉マンや王冠のかたちをしたクッキーは、見事に焦げ散らかしてひとつも食べられなかった。
燃え殻の『愛と忘却の日々』を読んでぼくは、あの日の不細工なクッキーを思い出した。もちろん本書はレシピ本ではない。作者の、そして作者がすれ違ってきた人びとの、「こんなはずじゃなかった生」の刹那が、おぼろげな記憶の糸をたぐるようにして綴られたエッセイだ。真昼の喫茶店でネットワークビジネスの勧誘を受ける男性。ぬいぐるみに盗聴器を仕掛けられたグラビアアイドル。毎朝さわやかにお金を無心してくる同僚。そして「信長なら本能寺で舞っている頃」の五十歳を過ぎてもなお、フルスイングで怒られ続け、いよいよ身体のあちこちがゆるんできた作者。ままならない。まったく人生は、ままならないことだらけだ。何度焼いてもぼくたちは、人生のクッキーを焦がしてしまう。
気の利いた作家であればここで、「正しいクッキーの焼き方」をレクチャーしてくれるところだ。こうすればうまくいく、という方法を。しかし、燃え殻はひとり黙々と焦げたクッキーを食べてみせる。「これはこれでおいしいよね」と。「俺はこれくらい不揃いで、焦げがあったりするほうが好きだな。いや、正直苦いけど」と。そうやって彼は、自身や周囲の「こんなはずじゃなかった生」にひとつずつツッコミを入れつつ、優しく肯定していくのである。
では、そうした肯定の音色が安っぽい癒やしとして響かないのはなぜか。おそらくその秘密は、燃え殻の文体にある。彼は、努めて平熱のまま、一定の距離感を保った傍観者の筆で、対象を描く。過度な肩入れを自らに認めようとせず、見えない一線を他者との間に引く。きっと、相手を傷つけたくない優しさと、自分が傷つきたくない臆病さの両方が、彼に傍観を選ばせているのだろう。
その意味で彼のエッセイは、すべて「傍観してしまった俺」の謝罪文とも言えよう。古ぼけた記憶をなぞり、流れていたはずの空気を吸い込み、語るべきだったはずの言葉を探しながら彼は、おおきな「ごめんなさい」を綴っているのだ。あの焦げたクッキーおいしかったよ、と。