『老いの深み』黒井千次著

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老いの深み

『老いの深み』

著者
黒井千次 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784121028051
発売日
2024/05/22
価格
924円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『老いの深み』黒井千次著

[レビュアー] 鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)

「老春」ユーモア随所に

 子供から大人になる思春期は、心身がともに成長していく。黒井さんが48歳のときに出した『春の道標』(現在は小学館P+D BOOKS刊)は武蔵野の自然を背景に、甘くほろ苦い10代の恋愛を美しく描いた傑作小説である。それから四半世紀たった2005年、73歳になる著者は本紙夕刊に月に1度、老いていく日々を見つめるエッセーを書き始め、92歳になる今日まで一度も休むことなく連載している。

 かつて長生きは長寿とされ、言(こと)祝(ほ)ぐものだったが、今や高齢化は問題とされ、老いの言説は不安を語るか、アンチエイジングで克服する元気なお年寄りの話に二分しがちだ。

 〈必要以上に若く元気でいたいとは思わない。かといって慌てて店仕舞いする気もない〉と記す黒井さんのエッセーはどちらでもない。視力が弱くなり、電車の中で本を読み耽(ふけ)る、長年の習慣が奪われたことの衝撃。散歩中に坂を登れなくなったときの怯(おび)えなど老いゆく日常を正直につづるのだが、どこかで自分の心身が、思春期とは反対に衰えていくさまを面白がっているようなのだ。

 洗い場の床に尻をついたまま、風呂場で立ち上がれなくなり、壁を叩(たた)いて家族に助けられた話にはオチがある。パジャマを着てから、「歳をとれば誰にでもこういうことは起るから皆十分に気をつけなければならない」と家族に訓戒を垂れるのだが、家人たちは〈感銘を受けた様子は見せなかった〉。まことに残念! 本書にはこうしたユーモアが随所にあり、〈成長期の子供は未来へ向けて転ぶのであり、老人は終りに向かって転ぶのだ〉など独自の考察が並ぶ。

 思春期では初恋、受験など人生の初体験が連続するが、考えてもみれば、かつて著者が連載に書いたように、〈年齢というものは常に初体験なのである〉。80代後半から90代にかけての日々を描くシリーズ第4弾の本書には、青春小説ならぬ老春小説とでもいうべき明るさがある。(中公新書、924円)

読売新聞
2024年9月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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