中村 計『落語の人、春風亭一之輔』(集英社新書)を南沢奈央さんが読む

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落語の人、春風亭一之輔

『落語の人、春風亭一之輔』

著者
中村 計 [著]
出版社
集英社
ジャンル
芸術・生活/諸芸・娯楽
ISBN
9784087213287
発売日
2024/08/09
価格
1,100円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

中村 計『落語の人、春風亭一之輔』(集英社新書)を南沢奈央さんが読む

[レビュアー] 南沢奈央(女優)

底知れぬ真一文字

 催眠術にかかった。落語を聴き始めて20年近くになるが、昨年末、そんな感覚になる落語を初めて体験した。
 冬によく高座にかけられる「ふぐ鍋」という一席で、酒の肴(さかな)に用意したふぐ鍋の毒が怖くて箸をつけられないでいた男二人が、大丈夫だと分かった途端に、夢中になって食べるという場面がある。思い出すだけで、生唾が出てくる。出汁(だし)の染みた熱々のふぐ鍋をたっぷりと味わい、そのあとにシメの雑炊作りに入る。語りだけで、立ち上る湯気までも見えた。いい匂いだ。まさに飯テロ状態。そして火照(ほて)った体に冷えたビールを一口……その瞬間、客席からゴクリという音が聴こえた。全員が同時に唾を飲んでいたのだ。見事に操られた、と思った。
 鑑賞ではなく、体験させるような落語。それを実現する催眠術師、もとい落語家というのが、春風亭一之輔(しゅんぷうていいちのすけ)師匠である。いかに落語という芸に向き合っているのか。本書は、一之輔さんに魅せられた著者が取材を重ね、素顔を追いながら芸の本質に迫る。
 上質なドキュメンタリーを見ているようだった。一之輔さんが語った生の言葉を、ナレーションのように著者が客観的に捉えながら展開し、落語家仲間や弟子などのインタビューでより骨格がはっきりしてくる。序盤に、以前一之輔さんを密着したNHKの某ドキュメンタリー番組に触れている。落語における苦悩や失敗が描かれなかった、と。
 その点本書では、葛藤まで至らずとも、試行錯誤を繰り返されている姿が見え隠れしていたように思う。さらに、落語家としての一之輔さんだけでなく、弟子/師匠という顔、父親としての姿、落語ファンとしての原点の表情が見られる。多角的な取材の中で一之輔さんにとことん向き合った成果だ。これぞ“真一文字”。
 師匠である一朝(いっちょう)師匠から「うちの師匠(五代目柳朝(りゅうちょう))を超えている」と言わしめる一之輔さんの凄さと人間力を感じ、最後に見えてきたのは、底知れなさだ。一冊通しても、人物を掴みきれない。もっと知りたい、落語を聴きたい。なるほど、ますます追いたくなる理由はここにあるのだろう。

南沢奈央
みなみさわ・なお●俳優

青春と読書
2024年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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