<書評>『陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春』辻原登 著

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陥穽 陸奥宗光の青春

『陥穽 陸奥宗光の青春』

著者
辻原登 [著]
出版社
日経BP 日本経済新聞出版
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784296120161
発売日
2024/07/19
価格
2,970円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

<書評>『陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春』辻原登 著

[レビュアー] 重里徹也(聖徳大特任教授・文芸評論家)

◆鋭敏な頭脳が落ちた穴

 日本外交の父とうたわれ、治外法権など不平等条約の一部撤廃を実現した陸奥宗光。この傑出した外交官、政治家の若き日々を描いた長編小説だ。陸奥という鋭敏な頭脳を視点に、幕末維新の激動の時代を体験できる。

 最も力点が置かれているのは、政府転覆を狙った土佐立志社事件にかかわって投獄を余儀なくされたことだ。明治政府の中枢近くにいた陸奥はなぜ、そんな陥穽(落とし穴)に落ちたのか。物語は近代史の解釈だけでなく、普遍的な人間ドラマとして楽しめる。それは政治とは何か、権力とは何かと問いかける。

 陸奥の幼少期から書き起こされる。紀州藩の幹部だった父親の失脚。苦渋に満ちた少年時代。高野山の学僧生活。変革期の群像との出会い。抜群の記憶力と理知的な能力で、陸奥は頭角を現していく。一方で自負心が強く、それを隠さないのが危うい。

 陸奥の目から見える人物たちの横顔が興味深い。海を思考の基点に置き、因習にとらわれず自由に発想する坂本龍馬。陸奥に最も影響を与えた人物だ。リアルに状況をとらえる桂小五郎も鮮やかだ。

 伊藤博文はすばしこい。物事の飲みこみが素早く、行動が敏速だ。大久保利通は冷酷だ。そこに国家を背負う存在感がある。西郷隆盛はえたいが知れず、心に闇を抱えている印象を受ける。

 アーネスト・サトウ(英国の外交官)は外からのまなざしで日本の権力闘争を眺めている。彼が登場すると、状況を見渡すような解放感が流れる。逆に感情的に生き急ぐ人物に対しては筆致が厳しい。それは歴史を動かさない。

 そして、陸奥宗光。龍馬の志を継いで、藩を超えた「国」という概念を抱き、全国の人民の集合体としての「日本」を提唱した。しかし、和歌山藩の軍隊を廃藩置県で奪われ、孤独に沈み、思慮を欠いた空想的な政府転覆計画に関与した。理念の現実性と手段の非現実性の間の陥穽に墜落したと描かれる。

 手段の非現実性。読者はこの言葉の意味を長編小説の重みでかみしめることになる。

(日経BP・日本経済新聞出版・2970円)

1945年生まれ。著書『翔べ麒麟』『卍どもえ』『隠し女小春』など。

◆もう1冊

『許されざる者』(上)(下)辻原登著(集英社文庫)。20世紀初めの和歌山県が舞台。

中日新聞 東京新聞
2024年8月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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