『忘却の効用 「忘れること」で脳は何を得るのか』スコット・A・スモール著

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忘却の効用

『忘却の効用』

著者
スコット・A・スモール [著]/寺町朋子 [訳]
出版社
白揚社
ジャンル
自然科学/生物学
ISBN
9784826902588
発売日
2024/05/02
価格
3,080円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『忘却の効用 「忘れること」で脳は何を得るのか』スコット・A・スモール著

[レビュアー] 櫻川昌哉(経済学者・慶応大教授)

不要な記憶消し 独創促す

 「もっと記憶力がよかったらいいのに」と思わない人はいないであろう。本書で例示されるボルヘスの短編「記憶の人、フネス」では、ある日、主人公はあらゆる物事を一瞬で記憶し、一切忘れない能力を手に入れる。主人公は、全ての過去を永遠に記憶していることが極度にストレスを与えることに気づく。嫌なことを忘れることができないのはつらい。鮮明すぎる記憶は物事を一般化して考える能力を阻むことにも気づく。朝日のなかで見た犬と夕闇のなかで見た犬を、色や大きさが違ったからといって、同じ「犬」であると認識することができない。ボルヘスは、認知の一般化を維持するために、記憶と正常な忘却のバランスが必要であると見抜いていた。

 「記憶力が低下してきた」「最近、物忘れが激しい」と、我々は忘れることを否定的に考える傾向にあるが、本書は、脳科学者の立場から、忘れることを肯定的に捉えようとする。

 食品で冷蔵庫をいっぱいにすると冷蔵機能が低下するように、脳もまた記憶で溢(あふ)れかえると情報処理の機能が低下して、知覚が異常をきたす恐れがある。正常な認知能力を維持するためには、不必要となった記憶を“消去”しなければならない。著者は、正常な忘却を促すのは睡眠であると説く。睡眠によって、一日のなかで経験した膨大な記憶のなかから、脳は必要な情報を残し、不要な情報を除去するという作業を行う。

 記憶力と独創性の関係について触れている箇所もまた興味深い。具体的な記憶の印象が強すぎると、一般化して考えること、抽象化して考えることが難しくなる。独創的なひらめきとは、まったく新しいものが降ってわいてくるわけではなく、個々の記憶が曖昧に結びついているため連想や自由な思考実験を楽しめるときに生まれるという見解は示唆に富む。

 私にとって十年来のパズルが、なぜかつい最近解けた。記憶力が低下したせいで固く結びついていた記憶の束に“緩み”が生じたからかもしれない。脳というのはおもしろい。寺町朋子訳。(白揚社、3080円)

読売新聞
2024年8月16日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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