『惣十郎浮世始末』木内昇著

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惣十郎浮世始末

『惣十郎浮世始末』

著者
木内昇 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784120057908
発売日
2024/06/07
価格
2,585円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『惣十郎浮世始末』木内昇著

[レビュアー] 長田育恵(劇作家・脚本家)

浮世生きる人々の至誠

 読後、胸中を熱いものに満たされつつ、ひろびろとした江戸の空を登場人物たちと肩を並べて見上げているような心地がした。本作は、時代小説の名手である作者の「捕物帳」という新境地。細やかに織り上げられた筋立ての奥に、人々のままならない生が息づいていて、それぞれの生き様や心模様が瞼(まぶた)の裏に焼きつく。

 時は天保、疱(ほう)瘡(そう)が流(は)行(や)り、改革で政の柱も揺らぐ世。浅草の薬種問屋で火が出て、焼け跡から二体の骸(むくろ)が見つかった。北町奉行所の定町廻同心、惣十郎は配下の佐吉や岡っ引きの完治らと調べに乗り出す。また検死を頼まれている町医者の梨春は、惣十郎を手伝いながらも、種痘を説く蘭学書を版行したいと専心していた。

 ひとつの事件を追ううち、数々の事件も絡まり出す。顛(てん)末(まつ)がつまびらかになるにつれ、現代を射(う)つ主題も浮かび上がってくる。「善悪は紙一重だ。どこを軸に見るかで、容易にその位相は変じる」――惣十郎は悪事を働く者たちの根本に、己の居場所がないという寄る辺のなさと恐怖を見抜いている。そんな惣十郎もまた取り返しのつかない負い目を持つ人間なのだ。悪筆でお役所仕事が大の苦手。愚痴も言う。誰しも大なり小なり枷(かせ)を負いながら、この浮世を生きながらえているのだと惣十郎の背中が体現している。

 それでも矜(きょう)持(じ)は貫く、彼らの眼(まな)差(ざ)しが印象深い。とりわけ梨春は、疱瘡の治療法が確立しておらず、漢方医と蘭方医が対立する中、種痘への理解を深めるため慎重かつ誠実に仕事を進めてきた。顛末の果て、彼の想(おも)いが慟(どう)哭(こく)となって迸(ほとばし)る場が胸に迫る。同時に、この浮世はこうした無数の至誠が連なり、後から来る者たちを生かすのだと思えば、存外と捨てたものじゃない、日常も光を帯びて見えてくる。今日一日を自分がどう生きるのかが問われ始める。

 物語の終わりが近づくにつれ、本の中の彼らと別れたくないと愛惜が込み上げた。装画は新聞連載中から挿絵を担当された五十嵐大介氏。(中央公論新社、2585円)

読売新聞
2024年8月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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